子どもが愚かさを教える(山の家で子どもたちと共に)

さて、ルールブック7ですね。(時空分割と重さ・依存)

依存の本性を見出しましょうね。

人間は、自分たち自身である社会に依存します。

なぜでしょうか?

人間社会は自分とは別なのでしょうか?

分別すると何が起きますか?

自分の幸せのために、利用しようとしませんか?

自分のお金、自分の地位、自分の評価です。

社会は何でできていますか?

人間すべての経験と知識の積み重ねでできていますね。

明らかですよね。

社会のもとは経験と知識です。

私たちみんなのものです。

私たちみんなが幸せに暮らすためのものですね。

ここにおいて、自分の経験と知識が重要になり、

評価されたいなら、どうなりますか?

これが世界中で起きていることです。

自分の幸せのために他を利用する依存です。

依存は戦いと腐敗と断絶です。

囚人は、経験と知識の蓄積により重くロックされます。

解除されないかぎりは依存状態です。

自由ではありません。

何度も繰り返される苦しみです。

苦しいので、異なる種類の依存先を探し求めます。

忘れさせてくれる何かへ。

「薬物・アルコール・賭け事・セックスへ」

満足を与えてくれる誰かへ。

「指導者・経営者・恋人・妻や夫へ」

安心させてくれる何かへ。

「金か神か高尚なイメージをともなった名誉へ」

「私」は比較と戦いの中、やがては悲嘆へ行き着きます。

周りを巻き込み、破壊しながら、です。

依存の罪です。

みんなの知識、みんなの経験、みんなの幸せを、

破壊する罪、依存の罪の重さです。

この重さを解き放てば、生まれ変わる可能性があります。

みんなに波紋を広げるかも知れません。

みんなが、いのちの重さを理解するかも知れません。

これは、時間の可能性が終わるときに、

囚人の可能性が終わるときに開かれる、

真実の可能性かも知れません。

人間同士の戦いは、知識と経験を巡ってです。

経験と知識に依存するもの同士の戦い、

囚人と囚人との戦いです。

人間は、経験と知識から解放され、自由を得るでしょうか?

 

【子どもが愚かさを教える】

昨日、花瀬にある、山の家に子どもたち34名、教師5名、学生2名、ボランティア(私)1名の計34人で宿泊してきました。

私は、小学二年生男子5名(囲碁と将棋とを、この子たちに教えています)と6人部屋で泊まりました。

よく知っている子どもたちで、やんちゃ盛りで、一人一人が自我を発芽させており、

その成長は一人一人違います。

その夜のことでした。

子どもたちが、おとなしく寝付くはずはなく12時をすぎたころに始めて全体の部屋が寝付き始めました。

その中で夜中2時をすぎてもまだ寝付けないで、ごそごそしていた子が、

「先生、あつい、寝られへん」としがみついてきました。

「みんな寝てるやろ、寝られんでもいいから、静かに横になっとき」

その子は、他のこの3倍食べて、はしゃぎ回る子です。

熱量、エネルギー、パワーを持った子です。

あつく、ありのままが出ます。

このエネルギーを、自分自身である社会は、寝付かせようとしてきました。

このエネルギーを、私は反射的に分別し、静かにさせようとします。

ありのままは、子どもの姿をかりて、愚かさを教えに来ます。

生きている学びが閉じてしまっている私には、

エネルギーの消耗だけが襲うのです。

これは親や、大人たちの消耗であり、私の消耗なのでしょう。

生きている愚かさ、生きているありのままを開くには、

計り知れないエネルギーを要することでしょう。

エネルギーを理解し、閉じられた社会を開けるでしょうか?

愚かさ自体を理解して、智恵を開くことはできないでしょうか?

このためにこそ、小さな学校を作れないでしょうか?

これは、独り言の、愚かな問でしょうか?

 

みなみ子どもの家づくり

内藤

 

時間空間の分割と囚人との関係

(6分割する時間空間・7実体の重さ・8関係)

 

ルールブック6からです。(時空分割・希望)

どうか、囚人の話を聞いてください。

「私」は、人間全体と別にあると考えます。

「私」は、考えにすぎません。

この二重性に、「私」は気づけません。

わかってもらえますか?

このとき「私」の現前において分割が現れます。

時間と空間の分割です。

生きている光、真理の光との分割です。

「私」は光をなくした状態です。

「私」の条件は闇です。

「私」の住み家である監獄は闇が条件です。

闇において「私」が投影する光が映し出されます。

未来です。

希望です。

たんなる映像です。

現在をスクリーンとして搾取し、映された過去です。

未来の希望に気づけないことが囚人の条件です。

分割された時間と空間が監獄をつくります。

わかってもらえますか?

どちらも自分自身です。

計られた空間、思考でできた現在のスクリーン化です。

スクリーンに映し出されているのは、時間です。

映し出されている過去は、経験と知識です。

記憶の中身として投影されます。

この理解を求める人には、図で示すことができます。

《葛藤が開くときに無明において見える自我の門》

「お知りになりたい方は囚人を訪ねてください」

記憶の中身は蓄積された経験と知識です。

思考がこれを分離します。

すると中心の重さ、時間、空間です。

これは二重性です。

内と外で起きます。

これが囚人のロック状態で二重ロックです。

重さが質量誤差としてロックされ、時間の鎖、

計量空間のスクリーンが監獄の壁です。

あなたのロックと囚人のロックが融合するとき、

解除の可能性です。

ですから、囚人の立場で聞いてください。

未来の希望、理想の実現は幻影です。

ですが、希望をなくさないでください。

現在を開けば、今をいっしょに開けば、現れます。

理想を実現する必要などありません。

希望は、今、開き始めたからです。

 

 

本日の子ども食堂は、約30名で、新しく一組の親子がきてくれました。

お母さん方が合計で7名おばあさんが一人の計8名の父兄ですが、

みんなに、ルールを作らずに、現在において、見て行います。

と、伝えました。

お母さん方は近隣の子どもたちが心の中においては、

みんな我が子だと考えてください。

ここで、いっしょにいる間だけでもいいですので、

みんなでつくる家だということを、

心にとどめておいて欲しい、

ルールを作りません。

これだけのお母さんたちが集まってくれれば、

この関係が、家です。

近隣で、個食を余儀なくされている子がいて、

その親が、仕事などで忙しいなら、

どうか、おばちゃんたちが、いっしょにつくっている家があるから、

ご飯食べにおいで、と言ってあげてください。

みなさんは、この地域の母です。

と、伝えました。

これが、みんなでつくる家づくりのルールかも知れません。

そして、みんなで、少しは分かち合えたかも知れません。

 

みなみ子どもの家づくり

内藤

人間の条件 7月17日子ども食堂

人間の条件

人間の条件は条件付けられています。

これが人間の条件です。

人間が条件付けられているかぎり誤作動します。

条件付けの解除は条件の理解です。

誤作動を止め解除するのは誤差の発見です。

人間の条件は、誤差の発見です

「私」を発見し理解することです。

「私」は人類の誤差です。

さて、ここから、いっしょにゲームに入ります。

ルールブック5のロック解除条件です。

ロック解除条件は人類の心です。

どういうことかというと、条件付けられている人間の条件、

すなわち誤差を解除するのです。

その誤差は「私」です。

「私」は人類と別にあると考えます。

これは誤差の条件です。

誤作動するように条件付けられています。

人間が使用するすべての技術は、誤作動のたまものです。

大変な利便性をもたらす科学技術は、誤作動しています。

宇宙の生きた動きと断絶した時間による技術です。

「時間のことは後で話します。」

誤作動する機械は生の動きから利便をもたらすのです。

これは科学技術の本性です。

利便をもたらすと同時に危険な機械です。

この技術を国別に、宗教別に、経済別に分別して持てば、

結果は、より多くの人間を殺してしまう戦争です。

たくさんの血と涙が流れるのです。

この根本原因は「私」です。

人類と別にある分別された誤差です。

誤差のロック解除条件は分別しない心です。

人類の心をもつあなたです。

ですが、もし、あなたが人類の心を持てていないなら、

少なくとも、この囚人の立場に身をおいて聞いてください。

そして、この囚人の立場に立って見てください。

囚人が暮らしている監獄のしくみを。

 

昨日の子ども食堂では、隣接する児童館の子どもが来館し、

児童館館長が、「児童館から子ども食堂に親なしで来館しないように願います。

小学生以下は来館できないように、ルール作りをお願いします。

どうか共存していってください。」と、頼まれました。

 

ルールは、人間を過去の監獄内に閉じこめます。

囚人同士は、ルールの断片化として、お互いを理解しないまま、

対立を深めていくことでしょう。

自己自身が制限されたルールにすぎないことに、

気づくことは難しいのかも知れません。

ですが、現在においてだけ、過去の制限を解放でき、

そこにおいて過去からの解放も可能でしょう。

この事実を、どう分かち合うか、です。

「話し合う」この一事につきるでしょう。

 

みなみ子どもの家づくり

内藤

生きとし生きるものとともに 7月15日日曜学校 みんなの家づくり

生きとし生きるものとともに

 

分別があるところ、イメージがあります。

イメージがあるところ、分別があります。

分別とはなんでしょう?

いっしょに考えましょう。

いのちとともに、分別がわかれば。

生きとし生きるものとともに、つながっています。

人類とともに歩みましょう。

分別は、いのちの中心作用です。

この作用は重さとして働き、分別をもたらします。

神経細胞の重さとして、宇宙全体の質量と分別されます。

宇宙全体質量は無量であり分別できないのです。

分別する重さは、計りきれません。

いのちの中心作用は、いのちの重さを持った誤差です。

計りきれないいのちの重さです。

事実として、この中心作用は重くロックされます。

人間は、この中心から制限された動きと計られた空間です。

人間の重さ、そのロック解除が、自由の扉を開きます。

 

人間の条件(次回のタイトルです)

 

本日の参加者は二人です。

日曜学校では今、自己中心のロック解除をし、

自己を自由にするゲームのルールブックをつくっています。

前回は(宇宙の対話)いのちの物語、

今回は生きとし生きるものとともに、

次回は人間の条件です。

 

みんなの家づくり事業は現在、子ども食堂と日曜学校を執り行っています。

この事業を近隣地域に出前しようかと考えています。

ご意見を聞かせてください。

みなみ子どもの家づくり

内藤

 

いのちの物語 《宇宙の対話》みんなの家づくりにおいて

いのちの物語 《宇宙の対話》

 

『音』が話しかけ「響き」が答える宇宙での対話をお聞きください。

(『 』が音「 」が響きです)

 

『いのちの起源ってなに?』

「宇宙の誤差」(ビッグバーンと響き渡る)

『うわ~、すごい。どこにあるの?』

「君の中心」

『エー、そうなのか。』

「君自身を理解することがすべての始まりを開く」

『いのちの始まりは誤差なのか。

あー、だから殺し合うのか。

だから、戦争を繰り返しているのか。』

「いのちは誤作動している」

 『あー、そういうことか。

救われるだろうか。』

「誤差を発見せよ」

『どうすりゃいい?』

「分けるな」

『エー』

「わかりもしないものを分けるな」

『そうか、生と死を分けている。

わかりもしないのに分けている。

恐ろしいことだ。

いのちを知らずに死を恐れ、生に怯えている。』

「いのちは宇宙で宇宙はいのちだ、分けるな」

『いのちの中心は分けるときに生まれるのか?

宇宙といのち、生と死を、分けるときか?』

「おまえとすべての関係。

おまえと世界の関係。

おまえと宇宙の関係。

おまえはその中心だ。」

『分けないなら、おれはなくなるじゃないか』

「それが恐怖の中心、いのちの中心」

『オー、誤差だということか』

「あやまちの中心、罪の中心、いのちの重さだ」

『おれは誤差である自分自身が消えてなくなるのを、、』

「恐れているんだ」

『これが恐怖の中心か?』

「響きわたらせよ」

『オー、いのちが目覚めるのか』

「ことばたちに聞かせよ」

『ことばたちが目覚めるには』

「ことばを消し去り、音を聞かせ、響きわたらせよ」

『いのちは恐怖から目覚め』

「自由と光を歩ませる」

『オー』

「立ちあがれ、見よ、一歩ふみだせ」

『オー』

「ことばたちを静め、宇宙の音を聞かせよ」

『オー』

「宇宙の響きを、その手で感じよ、生きはじめよ」

 

日曜学校7月8日は自分自身を自由にする能力の種である囚人ゲームのルールブックを作り始めました。

(これはルールブックで出しの物語です)

参加者は二名。

子ども食堂7月10日は参加者多数で数えていませんが役30名。

気になっていた、母子家庭の子どもが来てくれたのでうれしく思いました。

 

 

みなみ子どもの家づくり 6月19日 子ども食堂と日曜学校の報告 

みなみ子どもの家づくり 

6月19日 子ども食堂と日曜学校の報告

 

この事業では現在、子ども食堂と日曜学校を行っております。

 

本日(毎週火曜日)の子ども食堂も、多くの子どもたちでにぎわいましたが、親が自分の子どもを怒る姿が「ありのまま」現れた子ども食堂でした。

 

詳しい内容を話せないのは残念ですが、

分かち合いたいことが、たくさんあります。

そして、一人の高校生が進学か就職かに、迷いながら来てくれていました。

 

今日は、親とも、その高校生とも、じっくりと話し合えませんでした。

 

みなみ子どもの家づくり

内藤

みなみ子どもの家づくり 「かけがえのないもの」

みなみ子どもの家づくり 

6月5日 子ども食堂と日曜学校の報告

 

この事業では現在、子ども食堂と日曜学校を行っております。

 

昨日(毎週火曜日)の子ども食堂も、多くの子どもたちでにぎわいました。

恒例の心の食事は、前回に引き続き、

「かけがえないもの」を分かち合いました。

 

かけがえのない命が、

「かわりはいくらでもいますよ」

と言われるのは、

いったいなぜか?

私たちはどう考えるだろうか?

これを食してみるわけです。

 

「かけがえのないもの」という言葉を、

私たちは知っています。

聞いたことがあるし、

自分でも気づかずに使っているでしょう。

「かけがえない命です」

聞いたことがあるでしょう。

 

なんの命でしょう?

豚肉の命、鶏肉の命、又は魚の肉の命でしょうか?

 

すると突然、

小学校2年の男の子により、

物語が始まります。

「ミーちゃんが死んだん。大事にしてかわいがっていた子猫。僕には、かけがえのない子猫やったんや。」

「そやね、確かにかけがえない命やね。

君の大事な子猫のお葬式は、もう終わったか?」

「えー、そんなんできんの?」

「今から、私たちで、ミーちゃんのお葬式、いっしょにしてあげよか?」

「(こっくりとうなずく)」

「今から、かけがえのない命を開くため、お葬式を始めます。」

「はい。」

「これは、この世でたった一度だけのもので、繰り返すことはできません。なぜか解りますね。」

「かけがえがないからです。」

「これは儀式とは違っていて、やり方などはありませんし、誰かに頼ってはできません。お釈迦様やキリスト様にもかけがえを頼むこと、かわりを頼むことはできないし、そのお弟子さんたちであるお坊さんや神父さんにも頼れません。」

「うちらの、お葬式は神父さんがしてくれます。」

「そうですか?神父さんはお葬式のかわりをしていませんか。お坊さんがお釈迦さんでないように、神父さんはキリスト様ではありません。そうですね。」

「・・・」

「神父や、坊主は、死んだその人に出会ったことさえないやろ。だから、かけがえのお葬式をするのです。

私たちがやるのは、かけがえのない命を開くこと。かけがえのないお葬式。わかるか?」

「うん。」

「それは、君と、えーっと、名前なんやったっけ。」

「ルイ」

「ルイ君とミーちゃんとでやるんや。」

「先生は助けてくれはらへんの?」

「私は知らんやろ、ミーちゃんのこと。餌をあげたことも、だっこしたことも、遊んだこともあらへんやろ。知っている命やないとかけがえになってしまうんや。」

「何となくわかるけど、、、。」

「ハッキリと見えへんのやね?」

「うん。」

「眼をつむってごらん。」

 

「ミーちゃんが見えるか?」

「ちょっと待って」

「静かに見まもっとくから。

みんなも静かにルイ君を見まもって欲しい。ルイ君のなかでミーちゃんがよみがえるのを、みんなで待っとくから。

ルイ君、ルイ君のなかでミーちゃんがよみがえったら、ミーちゃんがいなくなるまで眼を開けてはいけないよ。わかった。」

「うん」

 

5分ほど経ちました。

ルイ君が目を開けると、

「ミーちゃんが、いってしもた」

 

「ルイ君。それが、お葬式なんや」

「もう、合えへんの?」

「お葬式を終わりにして、ルイ君とミーちゃんの新しい命、かけがえのない命を開くことができる人は、この世の中で一人しかいないのや」

「だれ?だれなん?」

 

「ルイ君や。

自分でも解るやろ、

これできるの、自分しかいないこと。

わかるやろ、ルイ君。」

「うん。」

「かけがえのない命、

これを開くのは君自身や。

これを開かないかぎり、私の命は、かけがえの命、見せかけの命、形だけの命、ウソの命や。

かけがえられてしまう命を終わりにすれば、

かけがえのない命が開きはじめる。」

 

「お父さんとお母さん方、

これは自分自身とイメージとが、

どのように関係しているかを見なければならず、

これこそは、お父さんとお母さんと子どもとでいっしょにやらねばなりません。

見るときには、瞬時にイメージしてるからです。

イメージそのものが、

いったい何であるのかを知るには、

イメージを媒介しないで、イメージを見なければなりません。

私たちは、イメージなしに見れますか?

 

どうか、この事実を、子どもと分かち合って欲しいです。

そして、問題が発生すれば、

対話する学校、

ありのままを生きる学校、

学校をつくっていく学校、

日曜学校に来てください。

みんなでつくっていきましょう」

 

みなみ子どもの家づくり

内藤