地球を救う忍法

昨日の子ども食堂は32名参加。

食事は、お好み焼き、焼きそば、サラダ、おやつとかき氷でした。

1,小学4年生男子6名で、地球を救う忍法を開発します。

2,子ども食堂の出前をして、近隣に種まきを始めます。

3,来週の子ども食堂は、お盆休みです。

みなみ子どもの家づくり

内藤

 

 

 

ルールブック9(生死の解除)

さて、分別あるときは誤作動しており二重ロック状態です。

分別が止むときには誤作動は緩やかになり始めます。

誤作動を誤作動であると見ることが、誤差の発見です。

自己中心が消えて、罪の重さは解かれるのです。

 

このように、生と死の問題を開けることは可能でしょうか?

地上で、たった一つかも知れない死の問題。

地上で、無数にあるかも知れない生の問題です。

私たちは、この問題を、どのように開くのでしょう?

 

死の門。

その入り口は「私」です。

自我です。

自分自身です。

自分自身の身近な日常の出来事から入りましょう。

そこは、ことばでできた迷いの世界です。

囚人にとっての監獄です。

イメージの壁で囲われています。

行為を誤作動させ葛藤を、対立を起こすことで、

囚人の力を奪います。

脱獄できないように、です。

鍵穴は、「私」の中心、自己中心性です。

鍵は二重構造を持ち、表面の鍵穴は二極性でロックされます。

自分自身が所属している場で、

判断していることに気づくこと、

非難していることに気づくことです。

所属している場所はロックされています。

判断、非難は二極性の鍵穴です。

判断なしに非難なしにアプローチできないなら、

少なくともその事実に気づいておくことです。

行為する主体なしに、です。

行為は死物です。

アプローチできません。

この事実が見えれば鍵穴はおそらく開き始めるでしょう。

囚人をつなぐ鎖、時間が止まり始めます。

いつのときにも「私」を恐れさす恐怖の現れです。

死の門をロックしている恐怖の現れです。

恐怖の二重構造。

それは、囚人をつなぐ時間と囚人をロックしている考えです。

それは、囚人の時間と思考です。

恐れの考えは事実として恐怖の思いでロックされます。

囚人の説明はロック解除ではありません。

あなたが囚人を解除するのでもありません。

あなたが、どうか、自分自身を解除してください。

それは、囚人の解除です。

時間は、現在を分割します。

過去と未来へ。

現在は過ちの重さで閉じられます。

恐怖の考えでロックされます。

恐怖の考えは時間の重さです。

恐怖の思考は時間です。

思考は時間です。

分割が止みます。

時間だけが見え始めるなら、

その動きが解除です。

 

死の門が開くと生きることが元気にしてくれます。

元気さで、あなたは、友人たちの生を開いていかれます。

苦しみと悲しみ、恐れや不安にロックされた、

友人たちの生を開くことができるのは、

あなたです。

死は全行為を静寂に導く門です。

静寂はそれ自身が生きた理解です。

あなたが聞いている音。

あなた自身である静寂はすべての音です。

 

ルールブック10(日常生活の心得)

正しい瞑想。

瞑想の条件は、瞑想者の状態です。

非常に単純にします。

この条件すなわち状態は、トータルな否定において開きます。

鍵穴が見え、空間が開き、時間構造が暴かれます。

瞑想者の状態です。

自己中心の重さが瞑想者の理解へと変容するのです。

瞑想者は、思考する主体、経験の主体、知識の蓄積者です。

この主体である蓄積者は感情を持ちます。

蓄積者の感情は反射、反応、応答します。

感情がすべての応答をし、

またすべての応答により感情が生じます。

このすべては心と分離しています。

すなわち誤作動により生じる過ちの主体です。

このすべてが瞑想者です。

行為のすべて思考のすべて知識と経験のすべてを否定し尽くします。

このとき注意するてんは、自己自身をも含めて否定すること。

お互いに相手の立場に立って、共にトータルな否定、

自己中心からの全否定に注意することです。

それは自己中心から否定できていないことへの注意です。

瞑想者の理解は自己に学ぶ理解の道です。

自己の野心、到達、達成、成功への動き、欲望の動き、

悟りたい、解脱したい、涅槃を得たい、自由になりたい、

幸せになりたい、社長になりたい、大臣になりたい、名誉教授になりたい、なりたい自己中心からの気づきと注意です。

トータルな欲望の動きです。

すべての思考、すべての感情に気づいてください。

正しい瞑想の道は瞑想者への道です。

瞑想者は欲望です。

思考と感情の主体を開く道なき道です。

それは、気づきからです。

ありのまますべてに気づいてください。

ありのまますべての気づきから中心への注意力です。

注意する力が自らの中心を開くなら、

主体の理解が開き始めます。

気づきから注意の中心。

そして力の訪れです。

注意の中心力が解かれます。

中心があるときは消耗する力です。

誤作動です。

消耗する誤作動である「私」は、

未来のイメージにすがります。

神の横にいる、大臣の横にいる、経営陣の席に座るイメージ。

過去に傷つけられてきた「私」が、

未来には傷つけられない防御服を着ている「私」です。

イメージです。

イメージからイメージへ移りゆこうとする「私」。

消耗する誤作動の「私」。

誤作動が見え始めるとき、静けさが音を聞きます。

中心の音が響きを残して消えゆきます。

中心が開かれる力は、消耗する誤作動が止むとき、

トータルな否定において、です。

トータルな否定において自我を解体する中心が現れます。

自己中心の盲点が開かれるのです。

注意力は自我を見る力です。

こうして自己に学ぶ瞑想者への道が、

正しい瞑想状態を開いてくれるのです。

 

正しい言葉。

瞑想には、言葉がありません。

言葉は、計る道具です。

生きているありのままとは、断絶しています。

ですから瞑想には、言葉がないのです。

瞑想が死んでしまうと言葉になります。

正しい言葉があるためには、死の理解を必要とするでしょう。

言葉は、そのもの自体ではないからです。

言葉の世界は、死刑囚の監獄です。

死の理解がないかぎりは、怯え続けます。

言葉は、死の世界です。

この理解は、ものすごい慈悲を生み出します。

正しき言葉は、死の理解です。

慈悲が語られるのです。

 

欲望の住む世界。

欲望たちが生活しているありのままを理解することは、

ことのほか重要です。

この囚人が持つ決意、行為、努力を理解してください。

意識的な決意「脱獄する」決意と努力。

無意識からくる「やるせなさ」がやがては順応します。

この意識と無意識を隔てる獄舎の壁は、

薄っぺらです。

とても単純なしくみです。

意識にも無意識にも、

さほどの意味はないかも知れません。

「脱獄する」決意や努力を要するでしょうか?

事実が見えれば自由です。

脱獄を要しません。

「それでも事実のしくみが知りたいって!」

それは直接、監獄に出向いて、囚人に面会してください。

そのときの熱意に敬意が生まれるなら、

ありのままが語られることでしょう。

さて、ルールブックに戻ります。

一人一人は、自分の重さに、実体があると思います。

罪の重さに実体があると思いこみます。

「我あり」との感情を持たされます。

瞬時に変わりゆく世界に惑わされ、

恒常性があると感じさせられています。

苦しみの世界で、つかの間に訪れる楽に迷っているのです。

腐敗した世界において、

映し出される自分のまわりだけでも

せめては清らかにしようとあがきます。

これが欲望たちの生活です。

これは力の消耗において維持されてはいますが、

やがて破壊され悲しみに至は必然です。

欲望は力の消耗により破壊へ至る生活です。

自分自身を知り、

自分自身に学べば、

明らかでしょう。

ここから、正しい生活、正しい決意、正しい努力、

正しい行為が生じることでしょう。

 

人生の問題(法と術について)

生きている問題を開けるための方法、

手段はありません。

問題の解き方は無いです。

生きている問題を開けることが、じつは答えなのです。

問題を開けることが答えです。

さて、これはどうゆうことでしょうか?

問題と答えとが別にあるもの、

これには方法があります。

多くの方が答えに行き着かれるでしょう。

私たち人間が生み出してきました方法すべては、

じつは法と術が生み出すのです。

法と術が生み出す方法は、

分割計量をもととし、

制限された空間(計量空間)において、

時間としての方法により達成されます。

過去の問題が現在を分割している様々な方法により、

未来の理想を達成しようとしているのです。

現在の問題に方法でアプローチし、回答を得ようとする動き、

これが力を消耗させるのです。

答案用紙に答えを記入するならば、これでいいでしょう。

いいえ、これでさえ環境や年齢に応じて、

適材適所に方法を変える必要があります。

生きている自分自身が抱えている問題、

これに方法を導入し、回答を得れば、

おそらく得るでしょうが、どうなりますか?

実際に、どうなりました?

その得られた答えは、

自分自身に再び襲いかかる、

新たな問題となります。

これを続けていくと、

「私」は、いったいどうなりますか?

すごい消耗です。

くたびれ果てます。

どこにも行き着くことがありません。

もう少し、具体的にしましょう。

「私」は怯えています。

恐怖があります。

恐怖は「私」自身です。

これが問題です。

「私」にとっては大問題です。

「私」は怯えていますので、安心が欲しいわけです。

安全でありたいのです。

セキュリティーを導入したいのです。

様々な、方法を試しますが、今ひとつです。

「あー、これで安心だ」といった尻から、

なぜだか不安です。

なぜでしょうか?

まだ足りていないからですか?

お金が、より多くあれば安心なのでしょうか?

「いいえ、そうではありません」と言わないでね。

みんなが、これを欲しがり、

そしてより多く持とうとしています。

そうですね。

より多く、もっともっと、です。

そうですね。

比較が、人間社会で何をもたらしていますか?

そして地位、それから名声です。

社会に認められることです。

肩書きが「私」の安全を守ってくれるでしょうか?

地位は「私」を守り、

名声はセキュリティーになるでしょうか?

地位と名声のおかげで、泥棒に入られます。

盗まれるかも知れません。

お金を。

「地位や名声は盗めない」って。

いいえ、殺されるかも知れません。

「私は死んでも名を残したい」って。

どれほどですか?

百年、千年ですか?

あなたが今、生きている神経細胞は、

200万年以上の生死の結果です。

言葉の歴史は浅いのです。

言葉は消えて無くなります。

名前が消えゆくのも、瞬時です。

あなたはこのことを知っています。

わかっているのに、やり続けます。

金と神と地位と名声、人間社会での認可です。

求め続けます。

どこに安心がありますか?

名付けられた、その名の声を聞きます。

名声を聞きます。

金と神と地位とに様々な名前があります。

その名前は、様々に説明されます。

名声の声を聞きます。

この言葉に反応して心が動き、形作られます。

こうして言葉の世界が開かれるのです。

これは真実の美しい世界ではありません。

美しい大地、美しい花、美しい青空の世界ではありません。

言葉の美しさにすぎません。

言葉はそのものでなく、造花の美しさです。

言葉でできた映像の世界です。

言葉の世界を解くとき、言葉は消えます。

無明において形が光となり動き始めます。

生きている美が開き始めるのです。

ロック解除です。

自己中心の門です。

そこから表に出るのです。

すべては、つくられた美ではありません。

物理的な肉体が持つ眼、

光をとおして形と色が映し出されます。

言葉は消えています。

この世界はあなたです。

あなたが世界です。

すべての問題は解消されます。

問題をつくるのは「私」です。

「私」が問題です。

この問題が私たちみんなに分け持たれているとき、

問題が開き始め新しい生き方が生まれるかも知れません。

世界の問題が私の問題です。

世界の問題と別に存在する「私」の問題があるとき、

誤差が生まれるのです。

「私」は人間の世界で誤作動を続けます。

分割あるところ、誤差が生じ誤作動します。

分割あるところ制限があり条件付けられます。

分割あるところ葛藤があり恐怖の空間を生きます。

これは法です。

この法を見る術、聞く術、学ぶ術があるのです。

この法と術がすべての方法を生み出すのです。

ですから、いかなる方法もないのです。

生き方が方法です。

私たちは、いっしょに考えて、

新しい生き方を見出しましょう。

 

ゲームの終わり。

「私」の終わりがゲームの終わりです。

分割は終わります。

自己と非自己の分割の終わりです。

生きている問題分割の終わりです。

ゲームオーバーです。

さて、ゲームが終わったので、今度はいっしょに、

監獄をつくってみましょう。

実際に、今から、造り始めますが、道具はなんでしょう?

監獄を造る道具は、なんだと思いますか?

今まで、監獄のしくみ、カラクリを聞いてきたわけです。

そして、どのように囚人がつながれているのかを、

ともに生きることで、学び始めているわけです。

私たちで、監獄を造ることができ、

囚人を収監する技能を身につけるなら、

囚人を解放することは、

いともたやすいことでしょう。

今、囚人ゲームは終わりましたが、

再び行うに当たっては、生きた対応が(死んだ知識対応ではありませんよ)囚人を自由にすることでしょう。

ですから、監獄をつくるための道具です。

なんでしょうか?

思考です。

考えること自体です。

そうですね。

人類に共通する道具、思考ですが、

その使い方を学ぶことは人間教育の中心です。

この中心教育をどこかの学校で行っていますか?

ですから、あなたと私で始めるのです。

これが私たちで開こうとしている日曜学校の意味です。

学校で行われることは、何を考えるか、です。

日曜学校で行うことは、どのように考えているのか、です。

眼鏡屋さんに行きます。

「見えにくくなりました」

近眼が進んだのか、乱視が混じっているのか、

老眼が始まったのか?

眼鏡屋さんには見え方を計る機械があります。

眼鏡屋さんを支える人たちはメガネを考えているのです。

何を考えるかで支え合っています。

「君の考えはすばらしい!我が社に取り入れよう」

「ホー、まずまずの考えですね」

「なんですか、君の考えていることは」

「考えが浅いですね、もう少しがんばってください」

「なんですか!この考えは、ダメじゃないか!」

これが私たちに起きていることですね。

学校では、教科について考えますね。

算数について、考えます。

「みんなの考えが正しく働いているか、テストしましょう」

「成績優秀ですね」

「まずますですね」

「もう少しがんばりましょう」

「これでは危ういですよ」

「あなたは進級できません」

何を考えるかで、学校も、会社も、あらゆる組織が、

支えられていますね。

これは世界中で起きていますね。

では、なぜ、どのように考えるのかをいっしょに開いて、

考えるとはどのようなことなのかを、

共に、共に、いっしょに、

なぜ、見出さないのでしょうか?

あなたの答えはなんですか?

比較し、評価し、順位をつけるためでしょうか?

価値付けが可能になるからでしょうか?

できる人間を発掘するためですか?

人間の価値は比較で見出せるのでしょうか?

比較でできた精神は、比較に依存します。

比較するための道具に依存するのです。

言葉に依存します。

私たちが見てきたように、依存はみんなの幸せを破壊します。

比較は、みんなの幸せを破壊するのです。

言葉で比較されできた精神は、

言葉で比較され生み出されていくすべての感情を、

理解するでしょうか?

比較しない精神、言葉に依存しない精神は、

可能でしょうか?

分別しない精神です。

分別のすべてが苦しむことを理解する精神です。

言葉で縛られ、比較される精神の苦悩を見るなら、

言葉なしに、比較なしに見えるなら、

慈悲の心で、ありのままを話せるかも知れません。

ゲームは終わりました。

道具を終いましょう。

生きている静けさが、すべての音を聞いています。

 

道具のしまい方。

最後に、道具のしまい方を学んでおきましょう。

単純にします。

道具箱は道具です。

この理解が道具のしまい方です。

道具が終われますと、実際にもう一人との関係は、

開き始めます。

今から、これを現実に試してみてください。

道具が出しっぱなしでは、

イメージとイメージが比較し合う関係です。

イメージとイメージが分割される関係であり、

関係ではなく、孤立を生みます。

孤立して生きるものはなく、虚偽を生じ、誤作動状態です。

道具箱は道具です。

道具箱は、分別をしまう箱です。

分別は道具です。

この道具は終われたことがあるのでしょうか?

出しっぱなしです。

他の道具とは違うのですから、

どうか「私はしまいました」とは言わないでください。

「どうしてか」って。

「私はしまいました」と言えないからです。

「なぜなの」って。

「私」が分別だからです。

さて、わかり始めています。

出しっぱなし状態は、イメージ世界における関係、

イメージとイメージとの人間関係です。

そうですね。

イメージとイメージは比較し合い傷つけられます。

わかりますね。

傷つけられたイメージは苦しみのなか戦い続け、

やがては悲嘆に行き着きます。

見え始めましたか。

「悲しみを分別できますか?」

自分自身に問うてください。

言葉をしまいましょう。

道具箱に。

言葉があるときには悲しみの音色を聞きません。

言葉は悲しみの分別です。

言葉は悲しみを理解できません。

悲しみの分別は悲しみを理解できません。

言葉をしまいましょう。

言葉は音です。

長い言葉はノイズです。

道具箱は静寂です。

静寂が道具箱です。

静寂において、すべての音は存在できるのです。

しまい方が見え始めました。

すべての音を聞きます。

電車の響き、

犬の遠吠え、

カラスの鳴き声、

自転車のベル、

赤ちゃんの泣き声を聞いてください。

すべての音を聞いてください。

そして、悲しみの音色を聞くのです。

悲しんでいる人の声を聞くのです。

そして、その言葉を聞いてください。

「私」の中にその言葉に対応する言葉が生まれます。

これは言葉と言葉の関係です。

これはイメージとイメージの関係です。

これは関係の破壊です。

このノイズを聞きましょう。

誤作動しているノイズを聞くのです。

すると「私」の言葉は消えて悲しみの言葉だけになります。

言葉の音色を聞いてください。

その音色には響きがあります。

それは生きている悲しみの響きです。

言葉である道具が終われるときの響きを聞いてください。

悲しみは終わりました。

今、あなたと私の悲しみは終わりました。

二人は別れますでしょう。

ですが、別々の人間ではありません。

同じように悲しみを理解する人間として。

今、悲しみは生まれ変わります。

 

 

おさらい。

人間性開花のプロセスと人間破壊を知ること=自己知」

計量の真理と行為=「計量の真理が関係の接着剤」

質量と計量の関係と行為=宇宙と生命の関係と行為

(色と空・観察者と観察対象・眼~意と色~法・などなど)

 

自己理解のプロセスとは

理解は、1,今・2,ここで・3,生きた力を要すこと。

事実ありのままは、

  • 今が時間で・遮断している。
  • ここは葛藤対立・混乱している。
  • 力は消耗し・分割している。

 

1=今、共に、時間を捨て、蓄積知と経験を捨てる。

2=判断を捨て空間に過去を譲る(時間拠点を譲る)

3=協力が破壊されている事実を分かち合う

 

論理を知るだけでは理解を分離する=ではどうする?

人間の問題を開き学ぶ・見る・聞く=3術を開く。

どのように=自己の問題を人類の問題として

そしてまた=人類の問題を自己の問題として

そして=身近なもう一人と人間問題として分かち合う

 

3術を持って、ありのままを生き、人間中心の種を育てる。

開花の過程で開花という結果が出ても脇に置く。

3術を、献身の愛で、友人たちに与える。

与える主体なしで、与える。

愛が与える。

 

さあ、これを、今から始めてください。

明日からではなく。

自分の家庭で、父母兄弟と親子で。

自分の職場で、上司と部下と同僚たちで。

自分の学校で、教師と生徒と友だち同士で。

 

まだ、開花してないので、「不安だ」ですか?

大丈夫、日曜学校に来てください。

いっしょに考えましょう。

 

さあ、一歩踏み出そう。

 

みんなの家づくり事業 日曜学校

「囚人ゲーム」より。

気づきは心のお薬であること、子ども食堂

7月31日火曜日子ども食堂は、約25名

日曜学校と子ども食堂で、どのような食べ方をしているか、ただ気づいていることを、

分かち合った。

学校の登下校において、どのように歩いているか、ただ気づくこと。

友だち同士で、自分がどのように話しているか、ただ気づくこと。

気づくことは、自分に学ぶ第一歩で、心のお薬になり、自分を守ってくれることを、

分かち合った。

 

ルールブック8(関係の解除)

比較できない自己中心の重さがロックされている囚人。

この「私」の条件は人間世界の何かに依存しています。

もちろん「私」は、水や空気や引力に依存します。

それを言っているのではありません。

心が形作られる依存です。

依存のただ中にあって、

「囚人みんなが自分の幸せのために経験と知識に依存する」

「ゆえに人間がつくる世界の何かに、すべてに依存する」

依存のただ中にあって、

依存なく生きられますか?

「生きれる!」と言ってください。

どうか「生きられる!」と。

そのためには関係と死とを理解しなければなりません。

どうか、囚人といっしょに、関係に入ってください。

 

さて、ここからは、関係を解除しましょう。

囚人と囚人の関係を。

「えー、人間同士の関係でないの?」ですか?

囚人同士の関係が解除されれば、

人間関係が開かれるからです。

囚人である「私」は、相手の囚人が、

どんな罪を犯したかを比較し、計ろうとします。

「私」は知りたいのです。

相手の罪を、です。

相手も「私」の罪を知りたいのです。

お互い比較し、計り合うために。

「殺人、盗み、ウソ、性暴力、怒り、欲望、虚偽記載」

多くの罪科に、一人一人別々の記載がされます。

こうして一人一人裁決のため、イメージが張られます。

囚人同士の関係は、イメージ同士の関係です。

人間同士の関係は、イメージ同士の関係ではありませんか?

司法が裁くか、良心が裁くかです。

生きとし生きるもののすべてはイメージをつくります。

食われないように食うために、

殺されないように殺すために、

生存のため、自己保存のため、

生存と保存が脅かされる恐怖のイメージをつくります。

「食われるぞ、殺されるぞ、生存できないぞ」

恐怖はいのちの重さです。

生命中心の作用です。

なぜ、イメージをつくるのでしょう?

なぜ、イメージをつくるかが理解できるとき、

生命の起源を発見できるかも知れないし、

おそらく囚人のロック状態は解除されるでしょうね。

囚人がイメージによりロックされているのは、

お互いの恐怖です。

そりゃそうです。

相手が何をしでかしたやつなのか、

わからないわけです。

相手のイメージをつくるのは安全のため?

つまり、恐怖がイメージをつくらせるのです。

怖いから、比較して計ろうとするのです。

恐怖が分別するのです。

危険なやつから遠ざかり、

食えそうなやつ利用できそうなやつ、

又は利用されることで得を得られる、

減刑される、上手い食にありつける、

下手をすれば独房行きだ!

恐怖が分別し、ことばの物差しで計りだすのです。

イメージです。

イメージをつくります。

恐怖の中心、いのちの中心、罪の中心、罪の重さです。

囚人は、イメージの監獄で独自の独房をつくります。

ことばでできた世界です。

こうして囚人は二重ロックされます。

今、囚人と共に、あなたの身近な人との関係を、

解除できるのではないでしょうか?

イメージは妻や夫ではありません。

イメージは息子や娘、孫たちではありません。

イメージは生徒や社員や信者でなく、

イメージは教師や経営者や指導者ではありません。

透き通る青空のイメージ、たなびく雲のイメージは、

透き通る青空でなく、たなびく雲ではありません。

イメージは事実ではありません。

ことばの独房なしに、この事実を見ましょう。

ことばなしに、いっしょに、静かにとどまりましょう。

イメージでできている世界が広がり始めます。

分別なしにとどまりましょう。

イメージの中を生きるのです。

イメージ自身に学ぶのです。

広く、広く、広く、です。

「私」自身を見ています。

とても静かに深く、深く、深く、運ばれていきます。

いのちの中心をいのちの中心が見ています。

中心が出会い一つになって融合します。

ロック解除を見ています。

いのちの中心作用を見ています。

イメージとイメージとの関係解除を見ています。

あなたともう一人の方との、最も身近な関係は、

比較できない人間同士の関係です。

比較するときイメージをつくります。

そして、イメージをつくるとき比較されます。

こうして関係は、心を傷つけロックするのです。

イメージ同士の関係です。

このロックされた関係を解除できるのは、

依存のただ中にあって、依存なく生きることの理解を持つ、

あなたにだけできるでしょう。

あなたは、囚人の立場に立って、聞いてこられたからです。

ここまで、注意深く聞いてくださったなら、

その聞くこと自体もまた、

囚人のロック解除です。

始まりは最も身近な囚人の独房からです。

ことばでできています。

ことばなしに独房を出ます。

監獄の世界はイメージでできています。

分別すると、

生きとし生きるものの世界は、ばらばらになります。

人間の世界、それぞれの生き物の世界をつくります。

分別が消えると、

イメージだけがあります。

いのちの重さが解き放たれる可能性です。

生きているいのちの関係を開くかも知れません。

生きとし生きるものとの繋がりにおいて、

人類の心をもったあなたは、

周りの人を自由にできるかも知れません。

それは紛れもなく、囚人である「私」の解除・自由です。

子どもが愚かさを教える(山の家で子どもたちと共に)

さて、ルールブック7ですね。(時空分割と重さ・依存)

依存の本性を見出しましょうね。

人間は、自分たち自身である社会に依存します。

なぜでしょうか?

人間社会は自分とは別なのでしょうか?

分別すると何が起きますか?

自分の幸せのために、利用しようとしませんか?

自分のお金、自分の地位、自分の評価です。

社会は何でできていますか?

人間すべての経験と知識の積み重ねでできていますね。

明らかですよね。

社会のもとは経験と知識です。

私たちみんなのものです。

私たちみんなが幸せに暮らすためのものですね。

ここにおいて、自分の経験と知識が重要になり、

評価されたいなら、どうなりますか?

これが世界中で起きていることです。

自分の幸せのために他を利用する依存です。

依存は戦いと腐敗と断絶です。

囚人は、経験と知識の蓄積により重くロックされます。

解除されないかぎりは依存状態です。

自由ではありません。

何度も繰り返される苦しみです。

苦しいので、異なる種類の依存先を探し求めます。

忘れさせてくれる何かへ。

「薬物・アルコール・賭け事・セックスへ」

満足を与えてくれる誰かへ。

「指導者・経営者・恋人・妻や夫へ」

安心させてくれる何かへ。

「金か神か高尚なイメージをともなった名誉へ」

「私」は比較と戦いの中、やがては悲嘆へ行き着きます。

周りを巻き込み、破壊しながら、です。

依存の罪です。

みんなの知識、みんなの経験、みんなの幸せを、

破壊する罪、依存の罪の重さです。

この重さを解き放てば、生まれ変わる可能性があります。

みんなに波紋を広げるかも知れません。

みんなが、いのちの重さを理解するかも知れません。

これは、時間の可能性が終わるときに、

囚人の可能性が終わるときに開かれる、

真実の可能性かも知れません。

人間同士の戦いは、知識と経験を巡ってです。

経験と知識に依存するもの同士の戦い、

囚人と囚人との戦いです。

人間は、経験と知識から解放され、自由を得るでしょうか?

 

【子どもが愚かさを教える】

昨日、花瀬にある、山の家に子どもたち34名、教師5名、学生2名、ボランティア(私)1名の計34人で宿泊してきました。

私は、小学二年生男子5名(囲碁と将棋とを、この子たちに教えています)と6人部屋で泊まりました。

よく知っている子どもたちで、やんちゃ盛りで、一人一人が自我を発芽させており、

その成長は一人一人違います。

その夜のことでした。

子どもたちが、おとなしく寝付くはずはなく12時をすぎたころに始めて全体の部屋が寝付き始めました。

その中で夜中2時をすぎてもまだ寝付けないで、ごそごそしていた子が、

「先生、あつい、寝られへん」としがみついてきました。

「みんな寝てるやろ、寝られんでもいいから、静かに横になっとき」

その子は、他のこの3倍食べて、はしゃぎ回る子です。

熱量、エネルギー、パワーを持った子です。

あつく、ありのままが出ます。

このエネルギーを、自分自身である社会は、寝付かせようとしてきました。

このエネルギーを、私は反射的に分別し、静かにさせようとします。

ありのままは、子どもの姿をかりて、愚かさを教えに来ます。

生きている学びが閉じてしまっている私には、

エネルギーの消耗だけが襲うのです。

これは親や、大人たちの消耗であり、私の消耗なのでしょう。

生きている愚かさ、生きているありのままを開くには、

計り知れないエネルギーを要することでしょう。

エネルギーを理解し、閉じられた社会を開けるでしょうか?

愚かさ自体を理解して、智恵を開くことはできないでしょうか?

このためにこそ、小さな学校を作れないでしょうか?

これは、独り言の、愚かな問でしょうか?

 

みなみ子どもの家づくり

内藤

 

時間空間の分割と囚人との関係

(6分割する時間空間・7実体の重さ・8関係)

 

ルールブック6からです。(時空分割・希望)

どうか、囚人の話を聞いてください。

「私」は、人間全体と別にあると考えます。

「私」は、考えにすぎません。

この二重性に、「私」は気づけません。

わかってもらえますか?

このとき「私」の現前において分割が現れます。

時間と空間の分割です。

生きている光、真理の光との分割です。

「私」は光をなくした状態です。

「私」の条件は闇です。

「私」の住み家である監獄は闇が条件です。

闇において「私」が投影する光が映し出されます。

未来です。

希望です。

たんなる映像です。

現在をスクリーンとして搾取し、映された過去です。

未来の希望に気づけないことが囚人の条件です。

分割された時間と空間が監獄をつくります。

わかってもらえますか?

どちらも自分自身です。

計られた空間、思考でできた現在のスクリーン化です。

スクリーンに映し出されているのは、時間です。

映し出されている過去は、経験と知識です。

記憶の中身として投影されます。

この理解を求める人には、図で示すことができます。

《葛藤が開くときに無明において見える自我の門》

「お知りになりたい方は囚人を訪ねてください」

記憶の中身は蓄積された経験と知識です。

思考がこれを分離します。

すると中心の重さ、時間、空間です。

これは二重性です。

内と外で起きます。

これが囚人のロック状態で二重ロックです。

重さが質量誤差としてロックされ、時間の鎖、

計量空間のスクリーンが監獄の壁です。

あなたのロックと囚人のロックが融合するとき、

解除の可能性です。

ですから、囚人の立場で聞いてください。

未来の希望、理想の実現は幻影です。

ですが、希望をなくさないでください。

現在を開けば、今をいっしょに開けば、現れます。

理想を実現する必要などありません。

希望は、今、開き始めたからです。

 

 

本日の子ども食堂は、約30名で、新しく一組の親子がきてくれました。

お母さん方が合計で7名おばあさんが一人の計8名の父兄ですが、

みんなに、ルールを作らずに、現在において、見て行います。

と、伝えました。

お母さん方は近隣の子どもたちが心の中においては、

みんな我が子だと考えてください。

ここで、いっしょにいる間だけでもいいですので、

みんなでつくる家だということを、

心にとどめておいて欲しい、

ルールを作りません。

これだけのお母さんたちが集まってくれれば、

この関係が、家です。

近隣で、個食を余儀なくされている子がいて、

その親が、仕事などで忙しいなら、

どうか、おばちゃんたちが、いっしょにつくっている家があるから、

ご飯食べにおいで、と言ってあげてください。

みなさんは、この地域の母です。

と、伝えました。

これが、みんなでつくる家づくりのルールかも知れません。

そして、みんなで、少しは分かち合えたかも知れません。

 

みなみ子どもの家づくり

内藤

人間の条件 7月17日子ども食堂

人間の条件

人間の条件は条件付けられています。

これが人間の条件です。

人間が条件付けられているかぎり誤作動します。

条件付けの解除は条件の理解です。

誤作動を止め解除するのは誤差の発見です。

人間の条件は、誤差の発見です

「私」を発見し理解することです。

「私」は人類の誤差です。

さて、ここから、いっしょにゲームに入ります。

ルールブック5のロック解除条件です。

ロック解除条件は人類の心です。

どういうことかというと、条件付けられている人間の条件、

すなわち誤差を解除するのです。

その誤差は「私」です。

「私」は人類と別にあると考えます。

これは誤差の条件です。

誤作動するように条件付けられています。

人間が使用するすべての技術は、誤作動のたまものです。

大変な利便性をもたらす科学技術は、誤作動しています。

宇宙の生きた動きと断絶した時間による技術です。

「時間のことは後で話します。」

誤作動する機械は生の動きから利便をもたらすのです。

これは科学技術の本性です。

利便をもたらすと同時に危険な機械です。

この技術を国別に、宗教別に、経済別に分別して持てば、

結果は、より多くの人間を殺してしまう戦争です。

たくさんの血と涙が流れるのです。

この根本原因は「私」です。

人類と別にある分別された誤差です。

誤差のロック解除条件は分別しない心です。

人類の心をもつあなたです。

ですが、もし、あなたが人類の心を持てていないなら、

少なくとも、この囚人の立場に身をおいて聞いてください。

そして、この囚人の立場に立って見てください。

囚人が暮らしている監獄のしくみを。

 

昨日の子ども食堂では、隣接する児童館の子どもが来館し、

児童館館長が、「児童館から子ども食堂に親なしで来館しないように願います。

小学生以下は来館できないように、ルール作りをお願いします。

どうか共存していってください。」と、頼まれました。

 

ルールは、人間を過去の監獄内に閉じこめます。

囚人同士は、ルールの断片化として、お互いを理解しないまま、

対立を深めていくことでしょう。

自己自身が制限されたルールにすぎないことに、

気づくことは難しいのかも知れません。

ですが、現在においてだけ、過去の制限を解放でき、

そこにおいて過去からの解放も可能でしょう。

この事実を、どう分かち合うか、です。

「話し合う」この一事につきるでしょう。

 

みなみ子どもの家づくり

内藤

生きとし生きるものとともに 7月15日日曜学校 みんなの家づくり

生きとし生きるものとともに

 

分別があるところ、イメージがあります。

イメージがあるところ、分別があります。

分別とはなんでしょう?

いっしょに考えましょう。

いのちとともに、分別がわかれば。

生きとし生きるものとともに、つながっています。

人類とともに歩みましょう。

分別は、いのちの中心作用です。

この作用は重さとして働き、分別をもたらします。

神経細胞の重さとして、宇宙全体の質量と分別されます。

宇宙全体質量は無量であり分別できないのです。

分別する重さは、計りきれません。

いのちの中心作用は、いのちの重さを持った誤差です。

計りきれないいのちの重さです。

事実として、この中心作用は重くロックされます。

人間は、この中心から制限された動きと計られた空間です。

人間の重さ、そのロック解除が、自由の扉を開きます。

 

人間の条件(次回のタイトルです)

 

本日の参加者は二人です。

日曜学校では今、自己中心のロック解除をし、

自己を自由にするゲームのルールブックをつくっています。

前回は(宇宙の対話)いのちの物語、

今回は生きとし生きるものとともに、

次回は人間の条件です。

 

みんなの家づくり事業は現在、子ども食堂と日曜学校を執り行っています。

この事業を近隣地域に出前しようかと考えています。

ご意見を聞かせてください。

みなみ子どもの家づくり

内藤

 

いのちの物語 《宇宙の対話》みんなの家づくりにおいて

いのちの物語 《宇宙の対話》

 

『音』が話しかけ「響き」が答える宇宙での対話をお聞きください。

(『 』が音「 」が響きです)

 

『いのちの起源ってなに?』

「宇宙の誤差」(ビッグバーンと響き渡る)

『うわ~、すごい。どこにあるの?』

「君の中心」

『エー、そうなのか。』

「君自身を理解することがすべての始まりを開く」

『いのちの始まりは誤差なのか。

あー、だから殺し合うのか。

だから、戦争を繰り返しているのか。』

「いのちは誤作動している」

 『あー、そういうことか。

救われるだろうか。』

「誤差を発見せよ」

『どうすりゃいい?』

「分けるな」

『エー』

「わかりもしないものを分けるな」

『そうか、生と死を分けている。

わかりもしないのに分けている。

恐ろしいことだ。

いのちを知らずに死を恐れ、生に怯えている。』

「いのちは宇宙で宇宙はいのちだ、分けるな」

『いのちの中心は分けるときに生まれるのか?

宇宙といのち、生と死を、分けるときか?』

「おまえとすべての関係。

おまえと世界の関係。

おまえと宇宙の関係。

おまえはその中心だ。」

『分けないなら、おれはなくなるじゃないか』

「それが恐怖の中心、いのちの中心」

『オー、誤差だということか』

「あやまちの中心、罪の中心、いのちの重さだ」

『おれは誤差である自分自身が消えてなくなるのを、、』

「恐れているんだ」

『これが恐怖の中心か?』

「響きわたらせよ」

『オー、いのちが目覚めるのか』

「ことばたちに聞かせよ」

『ことばたちが目覚めるには』

「ことばを消し去り、音を聞かせ、響きわたらせよ」

『いのちは恐怖から目覚め』

「自由と光を歩ませる」

『オー』

「立ちあがれ、見よ、一歩ふみだせ」

『オー』

「ことばたちを静め、宇宙の音を聞かせよ」

『オー』

「宇宙の響きを、その手で感じよ、生きはじめよ」

 

日曜学校7月8日は自分自身を自由にする能力の種である囚人ゲームのルールブックを作り始めました。

(これはルールブックで出しの物語です)

参加者は二名。

子ども食堂7月10日は参加者多数で数えていませんが役30名。

気になっていた、母子家庭の子どもが来てくれたのでうれしく思いました。