【自我の真理】

【自我の真理】
「私」って、いったい何?
その真理が、あなたを解放します。

あなたを解放することができるのは、
あなたが発見する、
自分自身の真理です。

自分自身を理解するときに生じる、
その真理作用です。

外部に助けはありません。
本や人に頼ることはできません。
「どうすればいいのか」という方法はないです。

かなり単純ですね。
自分を理解するのに、
自分以外の経験に頼れますか?
自分の知らない知識に頼れますか?
自分以外の考えに頼れるでしょうか?

これは大変有り難いことですね。
この有り難いことが、
有り難くなくなっているようですね。

自分自身の存在が、
存在しがたいと言うことが、
なんだか、綱渡りのようになってきてますよね。

これは「恐怖」のなせる技です。
この「恐怖」は全ての方を襲います。
その「恐怖」の一部分を、
今、いっしょに見ています。

それは「恐怖」そのものですか?
それとも「恐怖の考え」ですか?
「恐怖の考え」が、
私たちの頭脳を断絶腐敗させています。

これが「恐怖」の作用です。
見えますか?

このブログに記された言葉を鏡にして、
あなた自身を映し出すのです。

これは自我の真理作用です。
9月13日

【ありのままに学ぶこと】

【ありのままに学ぶこと】
ありのままには手を付けることができません。
手を付けられない、
知ることができない状態から、
私たちすべての命が生まれます。
それは一人一人のありのままです。
ありのままは計ることができません。
この中心から計ることで生じる誤差が、
自己中心です。
私たちはここから動き、誤作動します。
頭脳は誤作動します。
私たちは計りきることのできない命を、
中心に持っています。
計られた世界、計量世界、
比較され、評価され、判断され、
分けられていく世界のただ中にいて、
計ることなく、
ありのままに学べるでしょうか?
計ることなく、
ありのままを生きられるでしょうか?
計ることの自由において、
ありのままは花開きます。
計ることの危険に気づけているでしょうか?
計られてできたものの動きは、誤作動です。
私たち人間は誤作動しています。
何万年もの間、、、。
それは、条件付けられているのです。
私たち人間の条件は何でしょうか?
それは、条件付けられているという事実です。
これが条件です。
人間は二重基準を持ち、
矛盾を生きています。
この混迷と迷いを解くこと、
この闇を晴らすことで、
人間の条件を根本から変革する、
すなわち、革命をもたらすことが、
このブログをとおしての、
あなたと私の、ありのままの学びです。
戦うこと、対立することを条件として、
条件付けられる危険は、
結果が、殺すこと、すなわち戦争です。
これは人間のありのままです。
この事実、ありのままを計ることなく、
学べますか?
私は「殺しません。」と言います。
そこにあなたがやってきて、
「計っていますね、それこそが二重基準の迷いですね。」
と、私に事実を告げます。
私は、このままでは、闇を生き続けることが見えます。
これが、光なのです。
この光は二重基準の迷いと矛盾の闇を照らすのです。
これはあなたや私のための光ではなく、
生きとし生きるもののための光です。
この光が、ありのままを花開かせます。
私たちは、今、このブログをとおして、
ありのままを学んでいるでしょうか?
8月9日

【万有の真相を開く革命】

【万有の真相を開く革命】
このブログをとおして、あなたと私は、
社会を根本的に変革させる、
その可能性を開こうとしています。
この革命の可能性は、
質量と計量との関係を、
明確に見ることをとおして開きます。
見ることは行為することと同時です。
見ることと行為することとの関係を、
思考が媒介するときに起きる、
生きているものすべてに起きる障害の本性を発見するとき、
私たち人間の中心から、
生命が持たされてきた苦しみの原因を取り除き、解放し、
命自体に備わった、元気と自由とを取り戻すことができるのです。
人間の中心からの解放、
このときの心の状態、
このありのままの心こそが、
革命の可能性です。
この革命の可能性を開けるためには、
思考のプロセスを理解しなければなりません。
思考が、質量としてもたらす障害と、
思考が、計量道具として頭脳にもたらす障害を共に理解する必要があるのです。
この障害は、思考自体にあります。
思考が自ら障害を起こす分割作用です。
この分割により、
見えなくなる障害と、
この分割障害が見えるという解放があるのです。
すなわちそれは、闇と光です。
私たち人間世界では、
思考の物質としてのプロセスと、
思考の計量誤差としての障害は、
闇の中です。
見えません。
この光となるものが、
あなたの自己中心です。
それは計量誤差の真理です。
すなわちそれは、質量は計量であることの真理です。
この真理が質量と計量との関係を明らかにするのです。
あなたは、人類の誤差なのです。
この誤りを誤りであると見ることが、
光です。
この光が、
世界の中心を明らかにするのです。
 
 
 

【意識と自由】

【意識と自由】
現在科学の言い分では、
意識は無意識のほんの小さな一部分で、
しかも自由意志・自由な意識はない。
これは、脳内活動を観察すれば明らかだとされています。
はい。わかりました。
科学はすごいです。
そのとうりですと、言えますか?
科学は言います。
「自由意志・自由な意識はない。」
心は問います。
「どうしてそういえるのか?」
科学君=「意識は脳活動に依存している。意志決定者の行為は脳活動に条件付けられている。自由ではない。僕はこれを証明できる。自由があるという方、議論しましょう。」
心さん=「科学君。自由は、あるとかないとか決定できるものだろうか?いったい誰が決定するのだろうか?
科学君。あなたは、意志決定者の行為は脳活動によって条件付けられているという。ではその脳活動は何ものにも条件付けられていないと言うのだろうか?
科学君。どうか自分自身に問うてください。
脳の機能はなんでしょうか、と。」
科学君=「もちろん、脳活動は、五感をとおして身体に条件付けられますし、生きている周りの環境に条件付けられます。
そこで、脳の機能は何なのか、ですね。
脳機能は、生活環境にあるものを、五感をとおして感受します。この感受が入力されるのです。
この入力において脳内に「ゆらぎ」が生じ、この入力されたものに「ゆらぎ」がプラスされて出力として表現されることが脳の機能です。
そこで、自由の存在についてですが、
意識は明確に脳内活動の産物です。
唯一、自由があるとすれば、この「ゆらぎ」においてですが、この「ゆらぎ」そのものを観察することが可能になったのです。
この「ゆらぎ」においては、再現性はありません。一回性です。
その1回1回の「ゆらぎ」を観察すれば、感受において入力されたものが、同じ条件であっても「ゆらぎ」において様々に出力表現されるのです。
これは一回性ですが脳内活動によって条件付けられている意識です。
脳内活動を見れば結果が見えるのです。
よって、自由意志は存在しません。
心さん=「科学君。どうか自分自身をまずは観察して欲しいのです。
心は自由でなければ、生きている真理と断絶します。
観察装置を通して「ゆらぎ」を見ている科学君。あなたは「ゆらぎ」と別ですか?
この質問を、どうか自分自身に問うてください。
「ゆらぎ」と別に存在する科学君。あなたとはいったいなんでしょうか?
あなたは観察装置をとおして計量空間内にある「ゆらぎ」を観察しています。
すなわち科学君。あなたは計量空間における計量誤差です。
あなたが見ている「ゆらぎ」はそこから分離した動きである時間です。
すなわちそれは、科学自身の動きである誤作動なのです。
科学は無尽蔵なる生きた動きから、自ら誤作動することで、生きているものを搾取・破壊する動きであり、この誤作動により、人類は利便性を享受してきたのです。
従って、科学は自らが、その危険性を自覚せねばなりません。
私たちは、分かち合っているでしょうか?
科学君=「あなたが語っておられることは、私を動揺させます。」
心さん=「生きているもの同士が、計量により作り出す空間は幻影であり事実ありのままではありません。
苦しみ、悲しみ、戦いの空間です。
制限された空間です。
生きている空間から断絶した死の空間です。
この死を死と見て、この幻影を幻影であると見ること自体が、生きている真実の空間を開くのです。
私たちから、生きとし生きるものの中心作用である誤差を見抜くかとが、愛への第一歩です。
あなたと私からです。
真実を開くのは愛です。
7月22日

【学びのよりどころ】

【学びのよりどころ】
生きていく上での学びのよりどころはなんでしょう?
子どもも、大人もいっしょに考えます。
計りきることができないもの、
考えることができないもの、
知られていなくて、
知ることのできないもの、
生きている無量の動きそのものを
感受します。
深く感じ、見て、聞いて、尋ねて、
生きて学んでいます。
時間空間から自由で、中心はなく、
無量なる計量ゆえに静かです。
私たちは、生きた学びを知りません。
私たちが学ぶよりどころは記憶です。
記憶からの動きは時間です。
空間は限定制限された計量空間です。
幻影です。
幻影ですが、科学のために必要です。
機械的、物理的に日常生活を円滑にするため必要です。
この記憶からの学びしか知らないなら、
人間の世界はどうなりますか?
私たち人間が自分自身のありのままを理解できていない世界です。
争いを理解しないなら争います。
傷を理解しないなら傷つきます。
殺すことを理解しないなら殺します。
恐怖を理解しないなら恐怖します。
私たちは生きている学びを知りません。
学校で子どもたちはテストされます。
記憶を強化されます。
生きている学びと断絶します。
どのようにして子どもたちを救い出しますか?
誰もが記憶から自由ですか?
記憶は不完全です。
記憶は不十分です。
記憶は危険です。
記憶は過去の入れ物であり現在と断絶しています。
記憶は危険なのです。
記憶を拠点にすればコミにケーションは不可能です。
ですがこれをしています。
ゆえに危険のただ中を私たちは生きています。
子どもたちと友に自分自身の門を開きましょう。
学校で学業として授業が円滑に楽しく受けられ、なおかつ生きている学びに入っていけるよう、私たちは手助けしましょう。
7月16日
学びのよりどころは、ブラックボックスでした。
あなたと私のよりどころも、あなたの周りの人と私の周りの人も、よりどころは同じです。
記憶です。
記憶を拠点とし、記憶をよりどころとし、
動くのです。
これが行為です。
これが行動です。
これが行いです。
これが生きることと呼ばれます。
人類は記憶を条件にて行い、
そして生きています。
記憶は人類を条件付けています。
これは事実です。
この事実は今、光り輝いていますか?
それともブラックボックスですか?
なぜ人間は生きることを見失ったのでしょうか?
あなたはクリシュナムルティです。
あなたは釈迦です。
あなたはキリストです。
あなたは東京大学名誉教授です。
あなたは合衆国大統領です。
あなたは生きとし生きるものの中心です。
あなたは私に事実を告げます。
「記憶は人類を条件付けます」
「人間は生を見失っている」と。
あなたが告げた言葉を愚かな私はイメージします。
そして、「なるほど、そのとうりだ」と、
考えます。
この場を離れた私は、生を探しに回るのです。
あなたが告げた事実をよりどころとして。
記憶です。
過去におきたことと今起きていることは事実です。
記憶をともなわないならば、です。
記憶はイメージします。
記憶は考えます。
記憶は言葉で物語ります。
私たちは、子どもたちといっしょに、
人間の物語を聞いています。
7月17日
 

【ブラックボックス】

テレビやコンピューターを作ることができなくても使い方を知っていれば情報を得て交信することができます。
テレビやコンピューターはブラックボックスです。
地上にあるすべての機械はブラックボックスです。
すべての機械を作ることができる人などいないでしょう。
作ることができなくても使い方を知れば、その利便性に預かれるのです。
すべての機械がブラックボックスであるという事実において、私たちは分かち合っているでしょう。
では、私たちを分かち合えなくし、戦わせ、競争し、対立させているのはいったいなぜでしょう。
私たちが生きるために必要であり、便利である機械、助けてくれる機械だけでなく、私たちを殺すための機械があります。
なぜ、機械は間違って作られ、使用されているのでしょうか。
それは、すべての機械を作ってきた道具がブラックボックスとして覆われているからではないですか?
それは思考です。
すべての機械は思考の産物です。
すべてのシステムは思考の産物です。
この社会機構は思考の産物です。
機械はブラックボックスであっても使用できます。
思考をブラックボックスのまま使用すれば何がおきますか?
人と人とが対立し、殺し合わねばならない戦争の根本因は思考の構造がブラックボックスであることではないですか?
思考は自ら考える中心を作ります。
一人一人の経験と知識の蓄積です。
この中心からの動きが思考に支配された動き、時間です。
中心からの動き(すなわち)時間は、
生きている動きとの断絶です。
中心からの動きは現実ではなく幻影です。
このこと自体が現実です。
人類の経験と知識、すべての人間の思考と時間が中心により誤作動するのです。
これは事実です。
私の経験、私の知識、私の考え、私の時間です。
人類の経験と知識と思考と時間が、
人類の記憶が、
ブラックボックスで覆われます。
私たちは道具の構造を明確にし、権威を持ち込まず、互いに自分自身から道具の全体性を、学ばねばなりません。
私たちは、
いっしょにつくり、
いっしょに考えていきます。
7月14日

【慈悲と無慈悲】

【慈悲と無慈悲】
7月11日
目の前に様々な道具があります。
椅子は座るための、机は作業のための、
道具です。
コップは飲み物を入れるため、
お皿は食べ物を入れるための、
道具です。
私たちが家をつくるための道具はなんでしょう。
地上にあるすべての道具、
生きるための道具、
殺すための道具、
人類の道具のすべてをつくったものの正体はなんでしょう?
明らかですね。
思考です。
この道具は、いったいなぜ、間違って使われているのでしょうか?
子どもたちといっしょに考えてみましょう。
いっしょに、考えましょう。
いっしょに考えることができなくなっていることの正体を。
なぜ、いっしょに考えることができないのかを、いっしょに考えてみます。
7月12日
「かわいそうだ」と思い、
その人のために考えます。
このとき、私は考えます。
「私はいい人間です。
人の気持ちがわかり、哀れみ深く、慈悲深い優しい人間です。
私は親切に、その人のために考えなければなりません」と。
何がおきましたか、この私に?
これで、いっしょに考えられますか?
私は、憎しみをもち、悪意をもつよりましかも知れません。
しかし、どれほど違うでしょうか?
これなら、憎しみ、悪意をもたれるほうがましという人もいるでしょう。
いったいなぜ、人と人との関係は、
戦いとなるのでしょうか?
私は、道具の使い方を間違っているからです。
なぜ、使い方を間違うのか。
友よ、単純です。
友よ、使い方を知らないからです。
思考は、イメージを造り分ける道具です。
イメージし、計り、組み立てる道具です。
人間社会は、この道具で組み立てられます。
そして、この私も、この道具で組み立てられます。
思考は私の条件です。
思考によって私は条件付けられ、
組み立てられていくのです。
これの取り扱い説明書があるのです。
それは、私自身です。
私たちは、いっしょに家をつくり、
いっしょに考えなければなりません。
そのためには、お互いに自己に学び、
自己を知る必要がありますね。
それでは、イメージでできたブラックボックスを開いて、その構造を学びましょう。