【悲しみの中で、、、】
悲しみを知るものはどなたでしょう?
この質問を自分にしてみました。
知らない間に悲しみが訪れています。
私は悲しみを知らないのです。
だから私は悲しみを生きています。
私の悲しみは私にしか知れません。
その私は、自分自身を知りません。
だから私は悲しみを生きるのです。
葛藤・抗争と悲しみの終わりは、自己の諸々の道〔・あり方〕を理解し超越することをとおしてある。
すなわち、精神の創造物ではないあの不滅の真実を発見するなかに、あるのです。
自己認識は困難です。
しかし、それなしには、
無知と苦痛は継続します。
自己認識なしに、
闘争に終わりはありえないのです。
【人間の問題】
人間の問題は知的ですね。
言葉でできていますよね。
私は、人類が蓄積してきた問題の一つの断片です。
私はどのようにして、
解消するのでしょうか?
私の近隣での、
私の家庭での、
私の職場での、
私の学校での問題を、、、。
私たちは、
問題についてどのように考えるべきか、それにどのように接近すべきか、それをどのように検討すべきかを知らないなら、それを終わりにできません。
問題自体より、
接近〔方法〕のほうが重要です。
問題は、世の中・世界ではなくて、
あなたです。
あなたは、自分の最も切迫した即時の問題としてそれに気づくまで、
問題について正しく考えられません。
あなたは、まるでそれが自分の外側にあるかのように、
それに気づかないかも知れません。
あなたが問題を造り出したのです。
ですから、あなたが問題としての自分自身に気づかなくてはなりません。
あなた〔のなか〕の混乱が、
取り除かれなければなりません。
というのは、混乱〔状態〕において行動することは、もっと多くの混乱を生み育てることであるからです。
変革、再生は、他の人からでなく、あなたでもって始まらなくてはなりません。
これが正しい接近です。
あなたの精神的、情動的な活動に気づいてください。
あなたの日常的な習慣と観念に、あなたの反復的な恐れに、階級的、共同社会的な分割に、国家的・民族的、人種的な敵対に気づくのです。
世の中・世界に平和がありうる前に、あなたに平和と秩序がなければならないのです。
【盲目性】
「やめた方がいいよ、あんな人。」
何を言われても聞く耳を持ちません。
ギャンブル、興奮させる娯楽、宗教、
盲目にします。
盲目にさせることで、常連にします。
盲目にさせることで、信者にします。
恋の盲目から覚めたときは、
「何でこんな人を好きになったのか?」
ですね。
何でですか?
恋する相手は言うことを聞かないときもあり、生きて動いています。
薬物は言葉をしゃべらないし、動きません。
自分の言うがままですが、
そのうちに自分自身が言うがままにならなくなります。
ですから、様々に薬の種類を変えてみますが、気づいたときは自分の身体がボロボロです。
人は、選択することのめくらです。
人は、変化することのめくらです。
人は、意味と概念の中めくらです。
人類の中心であり、光です。
【人生ゲーム】
ゲームが終わり勝敗が決し、
一喜一憂です。
次のゲームに備え始めます。
この意識です。
意識は自己中心の駒です。
社会はゲーム版です。
上手くいくと非常におもしろいゲームですが、下手をすると大変苦しめられるゲームです。
社会はゲーム版であり、私はただの駒にすぎません。
私の意識がこのゲームの駒であること。
私の意識は社会の駒としての条件です。
この条件は、結果を得るようにと条件付けられています。
そうですね。
よりよい技術、よりよい方法、よりよい手段はないかと模索して、見つけ出すならそれを学びます。練習します。認可を受けて免許や資格をもらいます。
これらが私の新しい条件となり、ゲーム上は有利になりますよね?
人生はゲームですか?
まさか、そんなことはできませんね。
戦争やテロを行うことで終わりにすると。
戦争を行わせる人は、社会を終わりにしようとしています。
彼らは、このゲームはいけない、やり方やルールが悪いし、結果が悪いといっています。
この社会の評価でなく、神の評価がいると又は、神の評価でなく、先祖の評価だと又は、経済的評価だといっているようです。
国と国とに、民族と民族に別れていますがそれぞれに自分の言い分があり、自分にとっての新しいゲームを始めようとしますが、終わりにしません。
なぜ言えないのでしょうか?
どこから終わればよいか、わからなくなっています。
単純ですね。
自分からです。
自由ではありません。
条件付けられています。
条件は誤差です。
計量誤差です。
計ることを止めます。
分割はイメージ自体です。
イメージは人類の癖であり、生命の癖です。
イメージはそのもの自体ではありません。
分割します。
私を造り、自己と非自己に分けます。
生きている無量性ではありません。
あくまでもゲームです。
これがゲームの構造です。
イメージなしに生きられますか?
問うのです。
自分自身に問うのです。
この問が開かないかぎりゲームは続きます。
問が開くとゲームオーバーです。
【観察者の正体】
【観察者の正体】
私たちは、
まねすることを学んできました。
まねをすること、同一化すること。
中古の人間になること。
順応していき機械的な習慣のわだちにはまりこむこと。
同じ時刻の電車、タイムカード、指図、指示、指令です。
条件を与えられ条件付けられていきます。
仕事とは、このようなものでしょうか?
仕方がないのでしょうか?
そのまま続けますか?
私たちはなぜ、協力して生み出せないのでしょう。
なぜですか?
選択しましたよね。
自分自身で生み出しましたか?
比べたわけです。
他の仕事と。
選択は、中古人間の証です。
機械的人生を歩む証です。
「私にだって選ぶ権利がある」と言うとき、恋人を、夫を、妻を選びます。
家庭を築きます。
他の家庭と比べます。
比較は、中古人間の証です。
機械的人生を歩む証です。
自分自身が、中古の人間であるという明らかな自覚を持てていますか?
それとも、言葉だけでしょうか?
自分が中古品だと認めることはできませんよね。
そんなひどい言い方は、ないですよね。
いいわけを考えましょう。
比較の中でみんなが生きているのだから、仕方ないよ。
その中で自己防衛をしながら、正当化しながら、よりよく評価されたいし、よい妻、よい夫に恵まれたと感謝し、又は同じことでしょうけれども、なんてひどい夫、どうしようもない妻だと感じ、今はただ我慢だといい、又は限界だといい、次の相手を捜しましょうか?選べばいいわけですし、もちろん仕事もそうでしょうし、宗教も選んで、安定を得られないなら、また違うのを捜しましょう。
本当に、これでいいのですか?
このすべてが、イメージの中で生きている私の断片化です。
様々に分けられて計られており、比較され勝ち残りをかけた戦いです。
このすべては観察者です。
私たちは観察者を観察しています。
観察者はイメージを分割・計量します。
観察者が観察しているものも、イメージの分割・計量です。
この分割と計量との二重性は、恐怖と葛藤を生み出して、分割の闇の中で、計量の迷いの中で監獄生活を余儀なくされています。
どうやって出ますか?
観察者は観察されています。
観察者は人類です。
イメージの分割と言葉の計量なしに、
みれますか?
それとも言葉でできたイメージですか?
どうか自分自身で見出してください。
人類の悲しみはあなたの悲しみです。
あなたの家は人類の家の一部です。
あなたの仕事は人類のためにありますか?
あなたの関係はイメージにより分割していませんか?
あなたの関係は言葉により計られていませんか?
分割と計量が止むなら、あなたのイメージは人類のイメージです。
あなたが変われば、あなたの家が、あなたの職場が、あなたとの関係が変わります。
これは革命への道です。
そのために生きている思考を、このブログを通じて共にもたらしましょう。
4月16日