【悲しみの中で、、、】

【悲しみの中で、、、】
悲しみの中で、
悲しみを知るものはどなたでしょう?
この質問を自分にしてみました。
悲しみを知ることができないでいます。
知らない間に悲しみが訪れています。
私は悲しみを知らないのです。
だから私は悲しみを生きています。
誰が、悲しみを知れましょう?
私の悲しみは私にしか知れません。
その私は、自分自身を知りません。
どうして悲しみを知れましょう?
だから私は悲しみを生きるのです。
クリシュナムルティ
葛藤・抗争と悲しみの終わりは、自己の諸々の道〔・あり方〕を理解し超越することをとおしてある。
すなわち、精神の創造物ではないあの不滅の真実を発見するなかに、あるのです。
自己認識は困難です。
しかし、それなしには、
無知と苦痛は継続します。
自己認識なしに、
闘争に終わりはありえないのです。
4月27日

【人間の問題】

【人間の問題】
考えることが知識により支配されるときから、人間の問題が開きます。
人間の問題は知的ですね。
言葉でできていますよね。
この人間の問題は私自身です。
私は、私自身を理解しないなら、問題の中で死んでいくでしょう。
私は、人類が蓄積してきた問題の一つの断片です。
このようにして造られた私の問題を、
私はどのようにして、
解消するのでしょうか?
私の近隣での、
私の家庭での、
私の職場での、
私の学校での問題を、、、。
クリシュナムルティ
私たちは、
問題についてどのように考えるべきか、それにどのように接近すべきか、それをどのように検討すべきかを知らないなら、それを終わりにできません。
問題自体より、
接近〔方法〕のほうが重要です。
問題は、世の中・世界ではなくて、
あなたです。
あなたは、自分の最も切迫した即時の問題としてそれに気づくまで、
問題について正しく考えられません。
あなたは、まるでそれが自分の外側にあるかのように、
それに気づかないかも知れません。
あなたが問題を造り出したのです。
ですから、あなたが問題としての自分自身に気づかなくてはなりません。
あなた〔のなか〕の混乱が、
取り除かれなければなりません。
というのは、混乱〔状態〕において行動することは、もっと多くの混乱を生み育てることであるからです。
変革、再生は、他の人からでなく、あなたでもって始まらなくてはなりません。
これが正しい接近です。
あなたの精神的、情動的な活動に気づいてください。
あなたの日常的な習慣と観念に、あなたの反復的な恐れに、階級的、共同社会的な分割に、国家的・民族的、人種的な敵対に気づくのです。
世の中・世界に平和がありうる前に、あなたに平和と秩序がなければならないのです。
4月25日

【盲目性】

【盲目性】
恋は盲目です。
「やめた方がいいよ、あんな人。」
何を言われても聞く耳を持ちません。
薬物は人を盲目にします。
ギャンブル、興奮させる娯楽、宗教、
盲目にします。
盲目にさせることで、常連にします。
盲目にさせることで、信者にします。
盲目の中で何が見えるでしょうか?
恋の盲目から覚めたときは、
「何でこんな人を好きになったのか?」
ですね。
薬物の盲目性は覚めにくいです。
何でですか?
恋する相手は言うことを聞かないときもあり、生きて動いています。
薬物は言葉をしゃべらないし、動きません。
自分の言うがままですが、
そのうちに自分自身が言うがままにならなくなります。
恋人を変えること、妻や夫を変えることや、宗教宗派を変えることはできますが、自分を変えることは難しいのです。
ですから、様々に薬の種類を変えてみますが、気づいたときは自分の身体がボロボロです。
盲目性は、人生の転機です。
人は、選択することのめくらです。
人は、変化することのめくらです。
人は、意味と概念の中めくらです。
盲目の中で、人は光を求めます。
世に言うところの希望の光です。
希望の光は時間の闇です。
盲目性のまっただ中で、自己中心の闇を映すなら、自意識は光り出します。
無意識の闇が意識に光を投げかけるに従って、無意識の闇が、無明の闇が晴らされていきます。
そのとき、あなたの自己中心は、
人類の中心であり、光です。
闇を生きる人間たちの光です。
4月23日

【人生ゲーム】

【人生ゲーム】
ゲーム中は勝敗を巡って戦っています。
ゲームが終わり勝敗が決し、
一喜一憂です。
次のゲームに備え始めます。
この意識です。
意識は自己中心の駒です。
社会はゲーム版です。
意識する私は、社会でいかに方法と技術を上手く用いて、又は下手くそでも、金、地位、名声、社会評価を得ることができるかにかかっています。
上手くいくと非常におもしろいゲームですが、下手をすると大変苦しめられるゲームです。
社会はゲーム版であり、私はただの駒にすぎません。
私は死ぬまでこのゲームを続けるつもりです。
ところで、あなたにお尋ねしたいのですが、このゲームの主催者は誰なのですか?
あなたはこのゲームには参加しておられないのでしょうか?
私にわかっていることの一つは、
私の意識がこのゲームの駒であること。
私の意識は社会の駒としての条件です。
この条件は、結果を得るようにと条件付けられています。
そうですね。
結果が得られない、又は悪い結果であるなら、条件を変えねばなりませんね。
よりよい技術、よりよい方法、よりよい手段はないかと模索して、見つけ出すならそれを学びます。練習します。認可を受けて免許や資格をもらいます。
これらが私の新しい条件となり、ゲーム上は有利になりますよね?
人生って、ゲームでいいのでしょうか?
人生はゲームですか?
これ、どうやったら終われるのでしょう?
社会を終わらすわけにはいきませんよね。
まさか、そんなことはできませんね。
でも、しようとしている人がいますね。
戦争やテロを行うことで終わりにすると。
戦争を行わせる人は、社会を終わりにしようとしています。
彼らは、このゲームはいけない、やり方やルールが悪いし、結果が悪いといっています。
この社会の評価でなく、神の評価がいると又は、神の評価でなく、先祖の評価だと又は、経済的評価だといっているようです。
国と国とに、民族と民族に別れていますがそれぞれに自分の言い分があり、自分にとっての新しいゲームを始めようとしますが、終わりにしません。
ゲームオーバーだと言えないのでしょうか?
なぜ言えないのでしょうか?
どこから終わればよいか、わからなくなっています。
単純ですね。
自分からです。
自己意識は駒です。
自由ではありません。
条件付けられています。
条件を終わりましょう。
条件は誤差です。
計量誤差です。
計ることを止めます。
分割が見え始めます。
分割はイメージ自体です。
イメージは人類の癖であり、生命の癖です。
イメージはそのもの自体ではありません。
分割します。
分けます。
私を造り、自己と非自己に分けます。
ここに計量が始まり言葉でできた偽りの無量性が始まります。
生きている無量性ではありません。
あくまでもゲームです。
これがゲームの構造です。
イメージです。
イメージなしに生きられますか?
無理だと即答しないでください。
問うのです。
自分自身に問うのです。
この問が開かないかぎりゲームは続きます。
ゲーム中は思考の中です。
問が開くとゲームオーバーです。
この問が答えです。
4月20日

【生きている思考】 このブログは、法と術を開き、あなたと共に新しい世界を開くためのブログです。 法と術とは宇宙の秩序です。 それは完全な秩序であり、 完全な計量の真理を理解することによりたゆむことなく真理自体がもたらします 法と術は方法と技術の母です。 この秩序から方法と技術が取り出されたのです。 宇宙に無秩序が生まれ、 生命は分割・計量されました。 生命の中心作用である誤差の誕生です。 苦しみ、殺し合う世界を開きます。 恐怖の世界を開きます。 相手を殺して食べなければ命をつなげない恐怖、相手から殺され食

 

 

【生きている思考】 このブログは、法と術を開き、あなたと共に新しい世界を開くためのブログです。 法と術とは宇宙の秩序です。 それは完全な秩序であり、 完全な計量の真理を理解することによりたゆむことなく真理自体がもたらします 法と術は方法と技術の母です。 この秩序から方法と技術が取り出されたのです。 宇宙に無秩序が生まれ、 生命は分割・計量されました。 生命の中心作用である誤差の誕生です。 苦しみ、殺し合う世界を開きます。 恐怖の世界を開きます。 相手を殺して食べなければ命をつなげない恐怖、相手から殺され食

【観察者の正体】

【観察者の正体】
私たちは、
まねすることを学んできました。

まねをすること、同一化すること。
中古の人間になること。
順応していき機械的な習慣のわだちにはまりこむこと。
同じ時刻の電車、タイムカード、指図、指示、指令です。
条件を与えられ条件付けられていきます。

仕事とは、このようなものでしょうか?
仕方がないのでしょうか?
そのまま続けますか?

私たちはなぜ、協力して生み出せないのでしょう。
なぜですか?

選択しましたよね。
自分自身で生み出しましたか?
比べたわけです。
他の仕事と。

選択は、中古人間の証です。
機械的人生を歩む証です。

「私にだって選ぶ権利がある」と言うとき、恋人を、夫を、妻を選びます。
家庭を築きます。
他の家庭と比べます。

比較は、中古人間の証です。
機械的人生を歩む証です。

自分自身が、中古の人間であるという明らかな自覚を持てていますか?
それとも、言葉だけでしょうか?

自分が中古品だと認めることはできませんよね。
そんなひどい言い方は、ないですよね。
いいわけを考えましょう。
比較の中でみんなが生きているのだから、仕方ないよ。

その中で自己防衛をしながら、正当化しながら、よりよく評価されたいし、よい妻、よい夫に恵まれたと感謝し、又は同じことでしょうけれども、なんてひどい夫、どうしようもない妻だと感じ、今はただ我慢だといい、又は限界だといい、次の相手を捜しましょうか?選べばいいわけですし、もちろん仕事もそうでしょうし、宗教も選んで、安定を得られないなら、また違うのを捜しましょう。

本当に、これでいいのですか?

このすべてが、イメージの中で生きている私の断片化です。
様々に分けられて計られており、比較され勝ち残りをかけた戦いです。

このすべては観察者です。
私たちは観察者を観察しています。
観察者はイメージを分割・計量します。
観察者が観察しているものも、イメージの分割・計量です。
この分割と計量との二重性は、恐怖と葛藤を生み出して、分割の闇の中で、計量の迷いの中で監獄生活を余儀なくされています。

どうやって出ますか?

観察者は観察されています。
観察者は人類です。
イメージの分割と言葉の計量なしに、
みれますか?
それとも言葉でできたイメージですか?

どうか自分自身で見出してください。
人類の悲しみはあなたの悲しみです。
あなたの家は人類の家の一部です。
あなたの仕事は人類のためにありますか?
あなたの関係はイメージにより分割していませんか?
あなたの関係は言葉により計られていませんか?

分割と計量が止むなら、あなたのイメージは人類のイメージです。
あなたが変われば、あなたの家が、あなたの職場が、あなたとの関係が変わります。

これは革命への道です。

そのために生きている思考を、このブログを通じて共にもたらしましょう。

4月16日