【盲目性】

【盲目性】
恋は盲目です。
「やめた方がいいよ、あんな人。」
何を言われても聞く耳を持ちません。
薬物は人を盲目にします。
ギャンブル、興奮させる娯楽、宗教、
盲目にします。
盲目にさせることで、常連にします。
盲目にさせることで、信者にします。
盲目の中で何が見えるでしょうか?
恋の盲目から覚めたときは、
「何でこんな人を好きになったのか?」
ですね。
薬物の盲目性は覚めにくいです。
何でですか?
恋する相手は言うことを聞かないときもあり、生きて動いています。
薬物は言葉をしゃべらないし、動きません。
自分の言うがままですが、
そのうちに自分自身が言うがままにならなくなります。
恋人を変えること、妻や夫を変えることや、宗教宗派を変えることはできますが、自分を変えることは難しいのです。
ですから、様々に薬の種類を変えてみますが、気づいたときは自分の身体がボロボロです。
盲目性は、人生の転機です。
人は、選択することのめくらです。
人は、変化することのめくらです。
人は、意味と概念の中めくらです。
盲目の中で、人は光を求めます。
世に言うところの希望の光です。
希望の光は時間の闇です。
盲目性のまっただ中で、自己中心の闇を映すなら、自意識は光り出します。
無意識の闇が意識に光を投げかけるに従って、無意識の闇が、無明の闇が晴らされていきます。
そのとき、あなたの自己中心は、
人類の中心であり、光です。
闇を生きる人間たちの光です。
4月23日

【人生ゲーム】

【人生ゲーム】
ゲーム中は勝敗を巡って戦っています。
ゲームが終わり勝敗が決し、
一喜一憂です。
次のゲームに備え始めます。
この意識です。
意識は自己中心の駒です。
社会はゲーム版です。
意識する私は、社会でいかに方法と技術を上手く用いて、又は下手くそでも、金、地位、名声、社会評価を得ることができるかにかかっています。
上手くいくと非常におもしろいゲームですが、下手をすると大変苦しめられるゲームです。
社会はゲーム版であり、私はただの駒にすぎません。
私は死ぬまでこのゲームを続けるつもりです。
ところで、あなたにお尋ねしたいのですが、このゲームの主催者は誰なのですか?
あなたはこのゲームには参加しておられないのでしょうか?
私にわかっていることの一つは、
私の意識がこのゲームの駒であること。
私の意識は社会の駒としての条件です。
この条件は、結果を得るようにと条件付けられています。
そうですね。
結果が得られない、又は悪い結果であるなら、条件を変えねばなりませんね。
よりよい技術、よりよい方法、よりよい手段はないかと模索して、見つけ出すならそれを学びます。練習します。認可を受けて免許や資格をもらいます。
これらが私の新しい条件となり、ゲーム上は有利になりますよね?
人生って、ゲームでいいのでしょうか?
人生はゲームですか?
これ、どうやったら終われるのでしょう?
社会を終わらすわけにはいきませんよね。
まさか、そんなことはできませんね。
でも、しようとしている人がいますね。
戦争やテロを行うことで終わりにすると。
戦争を行わせる人は、社会を終わりにしようとしています。
彼らは、このゲームはいけない、やり方やルールが悪いし、結果が悪いといっています。
この社会の評価でなく、神の評価がいると又は、神の評価でなく、先祖の評価だと又は、経済的評価だといっているようです。
国と国とに、民族と民族に別れていますがそれぞれに自分の言い分があり、自分にとっての新しいゲームを始めようとしますが、終わりにしません。
ゲームオーバーだと言えないのでしょうか?
なぜ言えないのでしょうか?
どこから終わればよいか、わからなくなっています。
単純ですね。
自分からです。
自己意識は駒です。
自由ではありません。
条件付けられています。
条件を終わりましょう。
条件は誤差です。
計量誤差です。
計ることを止めます。
分割が見え始めます。
分割はイメージ自体です。
イメージは人類の癖であり、生命の癖です。
イメージはそのもの自体ではありません。
分割します。
分けます。
私を造り、自己と非自己に分けます。
ここに計量が始まり言葉でできた偽りの無量性が始まります。
生きている無量性ではありません。
あくまでもゲームです。
これがゲームの構造です。
イメージです。
イメージなしに生きられますか?
無理だと即答しないでください。
問うのです。
自分自身に問うのです。
この問が開かないかぎりゲームは続きます。
ゲーム中は思考の中です。
問が開くとゲームオーバーです。
この問が答えです。
4月20日

【生きている思考】 このブログは、法と術を開き、あなたと共に新しい世界を開くためのブログです。 法と術とは宇宙の秩序です。 それは完全な秩序であり、 完全な計量の真理を理解することによりたゆむことなく真理自体がもたらします 法と術は方法と技術の母です。 この秩序から方法と技術が取り出されたのです。 宇宙に無秩序が生まれ、 生命は分割・計量されました。 生命の中心作用である誤差の誕生です。 苦しみ、殺し合う世界を開きます。 恐怖の世界を開きます。 相手を殺して食べなければ命をつなげない恐怖、相手から殺され食

 

 

【生きている思考】 このブログは、法と術を開き、あなたと共に新しい世界を開くためのブログです。 法と術とは宇宙の秩序です。 それは完全な秩序であり、 完全な計量の真理を理解することによりたゆむことなく真理自体がもたらします 法と術は方法と技術の母です。 この秩序から方法と技術が取り出されたのです。 宇宙に無秩序が生まれ、 生命は分割・計量されました。 生命の中心作用である誤差の誕生です。 苦しみ、殺し合う世界を開きます。 恐怖の世界を開きます。 相手を殺して食べなければ命をつなげない恐怖、相手から殺され食

【観察者の正体】

【観察者の正体】
私たちは、
まねすることを学んできました。

まねをすること、同一化すること。
中古の人間になること。
順応していき機械的な習慣のわだちにはまりこむこと。
同じ時刻の電車、タイムカード、指図、指示、指令です。
条件を与えられ条件付けられていきます。

仕事とは、このようなものでしょうか?
仕方がないのでしょうか?
そのまま続けますか?

私たちはなぜ、協力して生み出せないのでしょう。
なぜですか?

選択しましたよね。
自分自身で生み出しましたか?
比べたわけです。
他の仕事と。

選択は、中古人間の証です。
機械的人生を歩む証です。

「私にだって選ぶ権利がある」と言うとき、恋人を、夫を、妻を選びます。
家庭を築きます。
他の家庭と比べます。

比較は、中古人間の証です。
機械的人生を歩む証です。

自分自身が、中古の人間であるという明らかな自覚を持てていますか?
それとも、言葉だけでしょうか?

自分が中古品だと認めることはできませんよね。
そんなひどい言い方は、ないですよね。
いいわけを考えましょう。
比較の中でみんなが生きているのだから、仕方ないよ。

その中で自己防衛をしながら、正当化しながら、よりよく評価されたいし、よい妻、よい夫に恵まれたと感謝し、又は同じことでしょうけれども、なんてひどい夫、どうしようもない妻だと感じ、今はただ我慢だといい、又は限界だといい、次の相手を捜しましょうか?選べばいいわけですし、もちろん仕事もそうでしょうし、宗教も選んで、安定を得られないなら、また違うのを捜しましょう。

本当に、これでいいのですか?

このすべてが、イメージの中で生きている私の断片化です。
様々に分けられて計られており、比較され勝ち残りをかけた戦いです。

このすべては観察者です。
私たちは観察者を観察しています。
観察者はイメージを分割・計量します。
観察者が観察しているものも、イメージの分割・計量です。
この分割と計量との二重性は、恐怖と葛藤を生み出して、分割の闇の中で、計量の迷いの中で監獄生活を余儀なくされています。

どうやって出ますか?

観察者は観察されています。
観察者は人類です。
イメージの分割と言葉の計量なしに、
みれますか?
それとも言葉でできたイメージですか?

どうか自分自身で見出してください。
人類の悲しみはあなたの悲しみです。
あなたの家は人類の家の一部です。
あなたの仕事は人類のためにありますか?
あなたの関係はイメージにより分割していませんか?
あなたの関係は言葉により計られていませんか?

分割と計量が止むなら、あなたのイメージは人類のイメージです。
あなたが変われば、あなたの家が、あなたの職場が、あなたとの関係が変わります。

これは革命への道です。

そのために生きている思考を、このブログを通じて共にもたらしましょう。

4月16日

【誤作動している経験】

【誤作動している経験】

法と術は人が学び生きることの中心です。
無量なる方法と技術を生じさせては滅し去る力の中心作用です。

この宝箱から、人間は方法と技術をとりだしてしまったのです。

根本的な分割がおきました。
すべての方法と技術は、
分割・計量の道具である法と術です。

分割あるところ、
誤差が生じ、
誤作動する。
これが法です。
このありのままを見ることが術です。

ありのままの事実は「不平等」社会です。
「平等」にせよと計ります。
分割しましたね。
どこに誤差が生じましたか?
「平等」にせよと計る主体です。
計る主体は「不平等」から「平等」へと、誤作動します。
いつまでたっても「不平等」社会です。
これが法です。
〔分割あるところに誤差が生じ誤作動していますよね。〕

この誤作動を計量空間に映します。
〔生きている無量の空間には映りませんよ。〕
計量空間は社会です。
自己中心から時間の動き、誤作動です。
社会に映された自己中心の誤差を見ます。
これが術です。
〔この見るという術は光に依存しないで、と言うことですね。もちろん網膜は光に依存しますよ。心が、です。〕

取り出された方法と技術は時間です。
事実と理想を分割しつなげる時間です。
事実が継続し続けます。
「不平等」社会です。
時間はありのままの社会を刻み続けます。
不平等が事実ありのままであるからです。

方法と技術においては越えられません。
理解されません。
不平等を。
社会を。
自分自身を。
ありのままを、です。

方法と技術を終うことが法と術です。
時間を終わることが法と術です。

何が聞こえていますか?
音ですか?
声ですか?
声を発する中心の響き?
それとも、意味だけですか?

このすべてを届けている母体は何?
そうですね。
静寂です。

静けさの中で、中心の響き、音色を聞けますか?
自己中心の葛藤する音色です。

苦しみと戦いの音です。

物質の音と生きている苦しみの声です。
静けさにおいて聞いています。
聞く術です。

見る術、聞く術をお互いに届けるため、
中心作用を理解しましょう。

それは知識の分割=誤差であり、
そこからの経験の誤作動です。
始めに経験があります。
〔これは自分で見いだせます。〕
経験を知識として記憶に蓄積します。
過去の一部として知識の蓄積です。
蓄積から思考します。
思考が経験者を造ります。
その経験者が経験をします。
これが誤作動であることを自分自身で見いだせます。

経験を知識として蓄積していくことで、
人類の知識が断片化していきます。
現実に、人類の頭脳が断片化し、
一人の人間の頭脳に中心作用がおきます。
すなわち、誤差から誤作動です。

これが苦しみと戦いの結果を招きます。
結果である戦争の断片化はテロです。
現実に今、おきている事実です。
化学兵器核兵器巡航ミサイルです。

危機的な誤作動のありのままです。
この根本因は中心作用です。

私とあなたの中心です。
私は違うと思いますか?
それが誤差の正体です。

脳細胞の中心作用です。

4月13日

 

【経験と自由】

【経験と自由】
自由ってなんでしょう?
意味や概念を理解するため、
説明を受けると自由なのでしょうか?

誰かが与えてくれるものでしょうか?
「おまえに自由を与えてやる」
そう言われても困りますね。

自由意志があるという前提で、
国は法律を造ります。
これがはたして自由だろうか?
矛盾しませんか?

何かに所属していますね。
私たちは人類に所属します。

では、なぜ他に所属するのでしょう。
学校に所属します。
「なぜ?」
教育を受けるために。
「何の為に受けるの?」

会社組織に所属します。
「なぜ?」
飯を食うために。
「誰が食うためなの?」

宗教団体や宗派に所属します。
「なぜ?」
救われるために。
「誰が救われるの?」

どれも答えは「私」ですね。
人類のために教育されるのでなく、
人類が食うためでなく、
人類が救われるためでなく、

まるで、
人類と別に「私」があるみたいですね。

今、いっしょに二重基準を見ています。
何かに所属したとたん二重性です。
扉の仕組みです。
出ることができずにいる扉です。

自由の扉は今、開きたいですね。
今です。
今出なければ、
一生涯出られないかもしれません。

自由を恐れているなら、
開きたくないですよね。

自由を経験できなくしているのが、
実は経験です。
「私」は自由が怖いのです。
そらそうですね、
「何がおきるかわからないもの」
-ですよね。

ですから、
この扉は恐怖です。
恐怖は扉そのものです。

「どうすればいいですか?」
この「どうすれば」自体が私です。

「どうすれば」が、
私の学校であり、
私の会社であり、
私の宗教であり、
私の国です。
「これ、全部、閉じてますよね」

どこの国、どこの学校で学んでも、
異なった形での「どうすれば」です。

「私」があるかぎり、
どこで、何を、どのようにしていても、
閉じてますし、まるで監獄のようです。

そのとおりです。
監獄です。
自由ではありませんね。

では、このブログをとおして、
いっしょに出てみますか?
恐ろしいですか?

監獄の囚人として、
脱走する計画を立ててみますかすか?

おろかですね?
またしても「どうすれば」ですね。

見えてきましたね。
今、私たちは、このブログをとおして、
分かち合い始めています。
言動を、行動を、動きを、
止めることの必要を。

止めなければ「どうすれば」の正体が、
見えないという事実を、
分かち合っていますね。

外面的・物理的な動きだけでなく、
内面的・心理的な動きにおいても。
止めなければなりませんね。

止めて、共に見てみましょう。
「自由を経験するものの正体です。」
「私は自由を経験できるかを。」

監獄は物理的にだけできていません。
物理構造だけでなく、
心理構造も知らねばなりません。

自由を見失わせる、物理構造と心理構造との両方を見出します。

監獄は私自身ですから、
私の身体と心を私自身に学べばよいわけです。

このとき、
このブログをとおして、
自由が開かれるかどうかを、
共に、実験しましょう。

そのために、
経験の本性を開けてみましょう。
「自由を経験できますか?」
「経験を知識として蓄えた心は、そもそも経験できますか?」
「次回のブログは、誤作動している経験のありのままを開きます。」
人類の経験を開くのです。

4月4日