【観察者の正体】

【観察者の正体】
私たちは、
まねすることを学んできました。

まねをすること、同一化すること。
中古の人間になること。
順応していき機械的な習慣のわだちにはまりこむこと。
同じ時刻の電車、タイムカード、指図、指示、指令です。
条件を与えられ条件付けられていきます。

仕事とは、このようなものでしょうか?
仕方がないのでしょうか?
そのまま続けますか?

私たちはなぜ、協力して生み出せないのでしょう。
なぜですか?

選択しましたよね。
自分自身で生み出しましたか?
比べたわけです。
他の仕事と。

選択は、中古人間の証です。
機械的人生を歩む証です。

「私にだって選ぶ権利がある」と言うとき、恋人を、夫を、妻を選びます。
家庭を築きます。
他の家庭と比べます。

比較は、中古人間の証です。
機械的人生を歩む証です。

自分自身が、中古の人間であるという明らかな自覚を持てていますか?
それとも、言葉だけでしょうか?

自分が中古品だと認めることはできませんよね。
そんなひどい言い方は、ないですよね。
いいわけを考えましょう。
比較の中でみんなが生きているのだから、仕方ないよ。

その中で自己防衛をしながら、正当化しながら、よりよく評価されたいし、よい妻、よい夫に恵まれたと感謝し、又は同じことでしょうけれども、なんてひどい夫、どうしようもない妻だと感じ、今はただ我慢だといい、又は限界だといい、次の相手を捜しましょうか?選べばいいわけですし、もちろん仕事もそうでしょうし、宗教も選んで、安定を得られないなら、また違うのを捜しましょう。

本当に、これでいいのですか?

このすべてが、イメージの中で生きている私の断片化です。
様々に分けられて計られており、比較され勝ち残りをかけた戦いです。

このすべては観察者です。
私たちは観察者を観察しています。
観察者はイメージを分割・計量します。
観察者が観察しているものも、イメージの分割・計量です。
この分割と計量との二重性は、恐怖と葛藤を生み出して、分割の闇の中で、計量の迷いの中で監獄生活を余儀なくされています。

どうやって出ますか?

観察者は観察されています。
観察者は人類です。
イメージの分割と言葉の計量なしに、
みれますか?
それとも言葉でできたイメージですか?

どうか自分自身で見出してください。
人類の悲しみはあなたの悲しみです。
あなたの家は人類の家の一部です。
あなたの仕事は人類のためにありますか?
あなたの関係はイメージにより分割していませんか?
あなたの関係は言葉により計られていませんか?

分割と計量が止むなら、あなたのイメージは人類のイメージです。
あなたが変われば、あなたの家が、あなたの職場が、あなたとの関係が変わります。

これは革命への道です。

そのために生きている思考を、このブログを通じて共にもたらしましょう。

4月16日

【誤作動している経験】

【誤作動している経験】

法と術は人が学び生きることの中心です。
無量なる方法と技術を生じさせては滅し去る力の中心作用です。

この宝箱から、人間は方法と技術をとりだしてしまったのです。

根本的な分割がおきました。
すべての方法と技術は、
分割・計量の道具である法と術です。

分割あるところ、
誤差が生じ、
誤作動する。
これが法です。
このありのままを見ることが術です。

ありのままの事実は「不平等」社会です。
「平等」にせよと計ります。
分割しましたね。
どこに誤差が生じましたか?
「平等」にせよと計る主体です。
計る主体は「不平等」から「平等」へと、誤作動します。
いつまでたっても「不平等」社会です。
これが法です。
〔分割あるところに誤差が生じ誤作動していますよね。〕

この誤作動を計量空間に映します。
〔生きている無量の空間には映りませんよ。〕
計量空間は社会です。
自己中心から時間の動き、誤作動です。
社会に映された自己中心の誤差を見ます。
これが術です。
〔この見るという術は光に依存しないで、と言うことですね。もちろん網膜は光に依存しますよ。心が、です。〕

取り出された方法と技術は時間です。
事実と理想を分割しつなげる時間です。
事実が継続し続けます。
「不平等」社会です。
時間はありのままの社会を刻み続けます。
不平等が事実ありのままであるからです。

方法と技術においては越えられません。
理解されません。
不平等を。
社会を。
自分自身を。
ありのままを、です。

方法と技術を終うことが法と術です。
時間を終わることが法と術です。

何が聞こえていますか?
音ですか?
声ですか?
声を発する中心の響き?
それとも、意味だけですか?

このすべてを届けている母体は何?
そうですね。
静寂です。

静けさの中で、中心の響き、音色を聞けますか?
自己中心の葛藤する音色です。

苦しみと戦いの音です。

物質の音と生きている苦しみの声です。
静けさにおいて聞いています。
聞く術です。

見る術、聞く術をお互いに届けるため、
中心作用を理解しましょう。

それは知識の分割=誤差であり、
そこからの経験の誤作動です。
始めに経験があります。
〔これは自分で見いだせます。〕
経験を知識として記憶に蓄積します。
過去の一部として知識の蓄積です。
蓄積から思考します。
思考が経験者を造ります。
その経験者が経験をします。
これが誤作動であることを自分自身で見いだせます。

経験を知識として蓄積していくことで、
人類の知識が断片化していきます。
現実に、人類の頭脳が断片化し、
一人の人間の頭脳に中心作用がおきます。
すなわち、誤差から誤作動です。

これが苦しみと戦いの結果を招きます。
結果である戦争の断片化はテロです。
現実に今、おきている事実です。
化学兵器核兵器巡航ミサイルです。

危機的な誤作動のありのままです。
この根本因は中心作用です。

私とあなたの中心です。
私は違うと思いますか?
それが誤差の正体です。

脳細胞の中心作用です。

4月13日

 

【経験と自由】

【経験と自由】
自由ってなんでしょう?
意味や概念を理解するため、
説明を受けると自由なのでしょうか?

誰かが与えてくれるものでしょうか?
「おまえに自由を与えてやる」
そう言われても困りますね。

自由意志があるという前提で、
国は法律を造ります。
これがはたして自由だろうか?
矛盾しませんか?

何かに所属していますね。
私たちは人類に所属します。

では、なぜ他に所属するのでしょう。
学校に所属します。
「なぜ?」
教育を受けるために。
「何の為に受けるの?」

会社組織に所属します。
「なぜ?」
飯を食うために。
「誰が食うためなの?」

宗教団体や宗派に所属します。
「なぜ?」
救われるために。
「誰が救われるの?」

どれも答えは「私」ですね。
人類のために教育されるのでなく、
人類が食うためでなく、
人類が救われるためでなく、

まるで、
人類と別に「私」があるみたいですね。

今、いっしょに二重基準を見ています。
何かに所属したとたん二重性です。
扉の仕組みです。
出ることができずにいる扉です。

自由の扉は今、開きたいですね。
今です。
今出なければ、
一生涯出られないかもしれません。

自由を恐れているなら、
開きたくないですよね。

自由を経験できなくしているのが、
実は経験です。
「私」は自由が怖いのです。
そらそうですね、
「何がおきるかわからないもの」
-ですよね。

ですから、
この扉は恐怖です。
恐怖は扉そのものです。

「どうすればいいですか?」
この「どうすれば」自体が私です。

「どうすれば」が、
私の学校であり、
私の会社であり、
私の宗教であり、
私の国です。
「これ、全部、閉じてますよね」

どこの国、どこの学校で学んでも、
異なった形での「どうすれば」です。

「私」があるかぎり、
どこで、何を、どのようにしていても、
閉じてますし、まるで監獄のようです。

そのとおりです。
監獄です。
自由ではありませんね。

では、このブログをとおして、
いっしょに出てみますか?
恐ろしいですか?

監獄の囚人として、
脱走する計画を立ててみますかすか?

おろかですね?
またしても「どうすれば」ですね。

見えてきましたね。
今、私たちは、このブログをとおして、
分かち合い始めています。
言動を、行動を、動きを、
止めることの必要を。

止めなければ「どうすれば」の正体が、
見えないという事実を、
分かち合っていますね。

外面的・物理的な動きだけでなく、
内面的・心理的な動きにおいても。
止めなければなりませんね。

止めて、共に見てみましょう。
「自由を経験するものの正体です。」
「私は自由を経験できるかを。」

監獄は物理的にだけできていません。
物理構造だけでなく、
心理構造も知らねばなりません。

自由を見失わせる、物理構造と心理構造との両方を見出します。

監獄は私自身ですから、
私の身体と心を私自身に学べばよいわけです。

このとき、
このブログをとおして、
自由が開かれるかどうかを、
共に、実験しましょう。

そのために、
経験の本性を開けてみましょう。
「自由を経験できますか?」
「経験を知識として蓄えた心は、そもそも経験できますか?」
「次回のブログは、誤作動している経験のありのままを開きます。」
人類の経験を開くのです。

4月4日

【計量世界での孤立無縁】

【計量世界での孤立無縁】

私たちが生きる世界は計量世界です。
カラスはカラスの、
猫は猫の、
魚は魚の、
計量世界を生きています。

命に根付いている恐怖は分割します。
生命を分割する恐怖の空間が、
見えません。
言葉は計量です。
計ることです。

計量世界は言葉で計られできています。
計量世界の中心は記憶です。
経験を言葉で計り知識として納めます。
これは二重の基準です。

生きる命の恐怖と計られた恐怖です。

経験と知識と記憶は命の道具です。

誰が使うのですか?
「私」ですか?
あなたですか?
今を生きる70億もの人たちですか?
未来の人類ですか?
生きとし生きるもののすべてですか?

この問が開くとき瞑想の扉は開きます。

この鍵は道具が終われるとき開きます。
二重基準の解消が開きです。

道具箱は道具です。
言葉は道具です。
経験は道具です。
知識は道具です。
記憶は道具です。

これらの道具で「私」は維持されます。
「私」は道具です。

道具が終われなければ、
分割の闇と、計量の迷いの中で、
人類である私は、
生きとし生きるものを巻き込みながら、
大量に殺し合う準備中です。
核攻撃の準備中です。

核装備は経験と知識と記憶からの動きである思考の産物です。

私たちは思考の取り扱いを知りません。
思考の危険を知りません。
思考を終わることに無自覚です。

「私」は思考であり、
恐怖があるかぎりは終われません。
「私」が終わらないかぎり、
恐怖が終わらないかぎりです、
思考である道具は終わりません。

完全に恐怖と向き合うには、
ただ一人、孤独を生きねばなりません。

孤独を感受し、
孤独を深く胸に感じ、
生きている孤独に触れてみるのです。
言葉なしに、です。

不思議なことが起き始めます。

孤独は消えていきます。
消えゆくときに孤独は教えます。
「孤立して生きているものはない」と。

恐怖にあってどうしようもないときが、
生きている恐怖の学びです。
生きてる恐怖は脳をデフォルトします。
脳細胞が生と融合する可能性です。

現在、脳細胞は、
思考の分割・計量作用によって、
条件付けられています。

これは事実です。
脳細胞における孤立化のプロセスです。

脳細胞の孤立化、断片化によって、頭脳は機械化し専門分野化しているので、限定された機能、2パーセント以下の機能です。

頭脳を預かる生命全体が孤立化のプロセスを生きているという真実が今、
あなたと私に、
このブログをとおして、
開かれているでしょうか?

脳細胞孤立化の変容が革命の可能性です。

生きているものに学ばなければ、
人は孤立のプロセスにいます。

3月31日

【自己中心の門~孤立の門】

【自己中心の門~孤立の門】

クリシュナムルティ
『日常生活と愛の関係は何ですか?
―いいですね。
それは今までになされたうちで最も馬鹿げた質問の一つです。
生と呼吸の関係は何ですか?
―そうですね。
世界中の人々が岐路に立っていることに人は気づいているかどうか。
そして、科学者を含めたあらゆる学者たちは、人間の向上は知識によると言います。
より多くの知識をもてば、もつほど、さらに向上する、と。
ところで、知識は記憶です。
頭脳に収集された過去の経験です。
ですから、これは、いつまでも過去に生きていれば、過去は向上するものだ、ということです。
分かりますか?
人間は向上していません。
恐怖がないときに限って、人間は、向上します。
快楽や欲望の性質を理解したときのみ、向上するのです。
そして、愛があるときには、心の真の開花があります。
時間という拘束を破りたいと思うか、その中で生きたいと思うかはあなた次第です。』


【孤立の門】
時間は思考です。
思考は因であり思考は果です。
この因果を分け、
時間を介入することで、
分割・計量により脳が断片化します。
脳機能は専門化します。
結果として生まれる社会は専門化します。

二重基準を持ち矛盾を生きています。

時間である思考を時間により分けます。
思考は自ら分割します。
何が生まれたでしょうか?
思考者です。
思考者は考える主体であり「私」です。
分割・計量によって生じた「私」は、
分割・計量により生きていくのです。
思考者は思考であることに、
気づかぬままに、、、。
「私」は思考であるという単純な事実に、
無自覚なままに、、、。

脳は分割・計量により断片化し、
脳機能は専門化します。
脳機能によって生み出される社会は、
専門分野化します。
なぜ、専門分野化した社会と、
別にある専門家を造るのでしょうか?
専門家は分割・計量された「私」です。
社会と人を断片化し二重基準を生きます。

専門分野化した機械的な社会機能が、
衣食住、医療技術、
利便性を与える科学技術や、
必要とされるものを人類にもたらし、
みんなに幸せをもたらすには、
「私は専門家である」という心を、
「私」を終わらなければなりません。
「私」は思考によって計り間違われた、
誤差だからです。
「私」は社会機能を誤作動させます。

こうして「私」は孤立していきます。
孤立させ、成功し、評価されたいです。
会社で取締役になりたいし、
神や信者や檀家さんに認可されたいし、
市民に選ばれて当選したいです。
又は放っておいて欲しいです。
ひっそりとでいいから、
安全で安心して煩わしさと動揺なしで、
気の合うもの同士で暮らしたいです。

こうして「私」は孤立していきます。
なぜでしょうか?
単純です。
「私」は人類の誤差です。

「私」が孤立していくプロセスを、
あなたと共に見ることで、
このブログをとおして、
革命の可能性を開きましょう。
3月30日

【自己中心を開く誤差のプロセス】

【自己中心を開く誤差のプロセス】

〔自由の扉を開く誤差のプロセス〕
Ⅰ{1重さ=2時間=3空間}
Ⅱ{1自己中心=2葛藤=3恐怖}
Ⅲ{1記憶=2知識=3経験}

誤差のプロセスを理解することで、
あなたと私はともに、
頭脳と世界との関係を見出し、
一つの神経細胞が電気信号によって織りなす生命の物語を見て、聞いて、学ぶことにより、
あなたと私はともに、
自己中心から、
人間の中心へ、
生命の中心へと辿ることで、
そこに実体がないことを悟るなら、
中心からの解放があるでしょう。

今、私たちはお互いの誤作動を止め、
重さから経験までをたどることで、
脳と宇宙との相関する関係、
すなわち法と術を理解しよう。

誤差プロセスにより、
世間の方法と技術が生まれます。
この生みの親が法と術です。
誤差の理解は完全計量です。
完全計量が方法と技術の生みの親です。

誤差を条件とする中心=重さは、
知的分割計量の動きである時間に、
条件付けられる。
知的理解者として条件付けられる。
知的理解者は、
自らが知識の組み合わせにすぎないということに無自覚です。
誤差の中心を抱えた知的理解者は、
自己正当化の戦いを継続するよう条件付けられています。
知的過ちを恐れ、
知的過ちを非難し、
自己の過ちを隠すために、
知識の組み合わせを変えていく。
このプロセスにより、
戦いにおいて殺すという過ちが、
正当化されます。
これは時間により条件付けられた人間たちのありのままです。
この人類の誤差が自己中心であり、
誤作動しています。

私は、人類の誤差です。

この理解は、自己理解です。
この理解は、革命の可能性です。
と私はあなたに告げます。

受け入れないでください。
はねつけることもしないでください。
判断せずに、評価せずに聞いてください。
解釈して記憶内容と照らし合わせないでください。

そして、結論と答えに行き着こうとしないでください。

あなたに告げたことを、
あなた自身である研究室で、
あなた自身を実験してみてください。

自分自身を理解するときに革命の扉は開くと言います。

それでは、プロセスを理解し、
法と術を開きましょう。

時間と空間、葛藤と恐怖は前回までにやりました。
それは、時間である葛藤がシグナルとして計量空間の監獄構造を、恐怖をもって伝えてくれることでした。
それは、時間の誤作動を止めること、
思考が止まることでした。
それは、道具箱は道具であること、
思考者は思考であること〔すなわち〕
私は道具であること、
私は思考であることの理解により、
生じると言いました。

今は、自己中心を理解するため、
言葉とイメージの道具箱を開いて、
道具の中心から、
見て、聞いて、学び、
見る術、聞く術、学ぶ術を開きます。
すべての方法と技術は溶けこみます。

自己中心を開く法は、
自らが光であることを術とします。
自己中心の法と術です。

中心が光るとき闇は晴れるからです。
意識が光るときに、
無意識が消えゆくとともに、
中心をならしめていたものの関係が暴かれます。
意識する主体に自由があるのかどうか?
意識できる行為は無意識に条件付けられていないかどうか?

自由意志の行為が、
自由でないことを暴くなら、
その光と共に、
自由を開く可能性が開くかも知れません。

この準備作業として、言葉とイメージでできた道具箱を開ける必要があります。

道具箱は道具です。

私たちは、言葉でイメージを造り、
相手を指図、指示、指令し、
相手に順応し、従います。

私は、何に従っているのでしょう?
私は、なぜ従うのでしょう?

二重基準と戦いの始まりです。
心の内ではイメージとの葛藤、
身体の外ではイメージとの戦いです。
相手のイメージを壊して、
道具を取り出し利用しようとします。
相手のイメージに恐れると、
自分の道具を差し出し、
利用されようとします。

お金の有る無し、
地位の有る無し、
権力・権威の有る無し、
生産手段の有る無し、
イメージが分割し、計られています。
二重基準の中、戦いです。

道具箱は言葉でできたイメージです。
私のイメージとあなたのイメージです。
私の葛藤とあなたの葛藤、
私の時間とあなたの時間、
私の恐怖とあなたの恐怖、
私の空間とあなたの空間、
自己中心の重さを抱えて、
お互いは関係し合えるでしょうか?

イメージとイメージとの関係が、
関係であるのかを問えと言われます。

自己中心は、
互いに出会えるでしょうか?

私は、あなたをイメージなしに、
見ることができていません。
あなたのイメージに隠された中心に、
出会うことができません。

こうしてイメージとイメージとの関係、
道具箱との関係を、
どう開けるでしょうか?
道具箱は言葉でできたイメージです。
道具箱は道具です。
私は道具です。
私は言葉です。

世界は言葉で、言葉が世界です。
言葉なしには、消えてしまいます。

言葉でできたイメージが消えるなら、
関係が、道具箱が開きませんか?

言葉は計量です。
計ることです。

計ることのできない自己中心は、
今、この現在において、
計ることでは出会えない。

生まれては死に、死んでは生まれる、
自己中心のありのままに出会えない、
今を生きる70億もの自己中心たちは、
過去何万年もの間、
生死を繰り返してきた自己中心たちは、
計ることのできない自己中心です。

計ることでは出会えないし、
関係することはできません。

言葉は計量であり、
イメージは分割です。
言葉とイメージは分割・計量であり、
計ることです。

イメージなしに、言葉なしに、
中心から関係できないでしょうか?

中心が消えるとき、
それは中心からの関係です。
自分以外の人に、中心を消すように指図できません。

自分からです。

日常生活において、
生きている苦しみ、
生きている問題を、
中心から開くことで消えていきます。

このとき、
発見があるなら、
それは法と術です。

このブログをとおして、
お互いが、
自己中心を実験してみましょう。

3月27日

【不死の門を開く準備実験】

【不死の門を開く準備実験】

このブログ上でおこなわれる、
あなたと私の実験・研究は、
一つの脳細胞が、他の細胞との関係を、
物理的にも、精神的にも変革するとき、
人間の頭脳全体に引き起こす波紋が、
人間社会に変革を引き起こす、
革命の可能性を開く実験・研究です。

前回、私たちは、空性において、
ありのままが映し出されるのは、
自らが光であることにおいてだ、
と言いました。
これは、時間と空間との分割・計量を理解したときにおきる空の性質であり、
生きている空間との融合です。

人間が生きる空間は知的空間であり、
断絶であり、闇です。
光に依存します。
自らが光であることを見失います。
闇において時間の非可能性に迷います。

知的空間の中では時間は可能性です。
物理的には光がなければ見えません。
現在において見えるのです。
未来は見えません。

現在を開くのです。
現在において、
過去から未来への動き=時間が、
非可能性であることが見えるなら、
可能性としての今が開くのです。

時間は自ら本性を開き、
空間に消えていきます。

言葉を換えますと、
葛藤が、
恐怖の闇の手助けで、
自ら光ながら仕組みを教えます。

物質原理と生命原理が出会い、
命の中心作用である、
苦しみと戦いの本性が現れ始めると、
中心の原理は解消し始めます。

原理と原因を求めてきた中心が止み、
知的理解の誤差が暴かれます。

生と死の分割が止み、
不死なる門が現れます。

この門を開く鍵は、
自己中心の理解です。

計りきれない自己中心の重さを、
どのように計ればよいのか?
計らないのです。

今、
自己中心からの誤作動が止んだのです。
あやまちの差異性である、
誤差の法則に入りましょう。

誤差法則の理解が道具箱を開く鍵です。

私は道具です。
道具の作用を理解します。

自己中心から自己を理解するなら、
自己のプロセス、
道具のプロセスが見えるでしょう。

自己が道具として、
命全体に使われているなら、
自己の死は、生に使われ、受け継がれ、
死は生に溶けこみます。

不死の門が開いているかも知れません。