【意識と自由】

【意識と自由】
現在科学の言い分では、
意識は無意識のほんの小さな一部分で、
しかも自由意志・自由な意識はない。
これは、脳内活動を観察すれば明らかだとされています。
はい。わかりました。
科学はすごいです。
そのとうりですと、言えますか?
科学は言います。
「自由意志・自由な意識はない。」
心は問います。
「どうしてそういえるのか?」
科学君=「意識は脳活動に依存している。意志決定者の行為は脳活動に条件付けられている。自由ではない。僕はこれを証明できる。自由があるという方、議論しましょう。」
心さん=「科学君。自由は、あるとかないとか決定できるものだろうか?いったい誰が決定するのだろうか?
科学君。あなたは、意志決定者の行為は脳活動によって条件付けられているという。ではその脳活動は何ものにも条件付けられていないと言うのだろうか?
科学君。どうか自分自身に問うてください。
脳の機能はなんでしょうか、と。」
科学君=「もちろん、脳活動は、五感をとおして身体に条件付けられますし、生きている周りの環境に条件付けられます。
そこで、脳の機能は何なのか、ですね。
脳機能は、生活環境にあるものを、五感をとおして感受します。この感受が入力されるのです。
この入力において脳内に「ゆらぎ」が生じ、この入力されたものに「ゆらぎ」がプラスされて出力として表現されることが脳の機能です。
そこで、自由の存在についてですが、
意識は明確に脳内活動の産物です。
唯一、自由があるとすれば、この「ゆらぎ」においてですが、この「ゆらぎ」そのものを観察することが可能になったのです。
この「ゆらぎ」においては、再現性はありません。一回性です。
その1回1回の「ゆらぎ」を観察すれば、感受において入力されたものが、同じ条件であっても「ゆらぎ」において様々に出力表現されるのです。
これは一回性ですが脳内活動によって条件付けられている意識です。
脳内活動を見れば結果が見えるのです。
よって、自由意志は存在しません。
心さん=「科学君。どうか自分自身をまずは観察して欲しいのです。
心は自由でなければ、生きている真理と断絶します。
観察装置を通して「ゆらぎ」を見ている科学君。あなたは「ゆらぎ」と別ですか?
この質問を、どうか自分自身に問うてください。
「ゆらぎ」と別に存在する科学君。あなたとはいったいなんでしょうか?
あなたは観察装置をとおして計量空間内にある「ゆらぎ」を観察しています。
すなわち科学君。あなたは計量空間における計量誤差です。
あなたが見ている「ゆらぎ」はそこから分離した動きである時間です。
すなわちそれは、科学自身の動きである誤作動なのです。
科学は無尽蔵なる生きた動きから、自ら誤作動することで、生きているものを搾取・破壊する動きであり、この誤作動により、人類は利便性を享受してきたのです。
従って、科学は自らが、その危険性を自覚せねばなりません。
私たちは、分かち合っているでしょうか?
科学君=「あなたが語っておられることは、私を動揺させます。」
心さん=「生きているもの同士が、計量により作り出す空間は幻影であり事実ありのままではありません。
苦しみ、悲しみ、戦いの空間です。
制限された空間です。
生きている空間から断絶した死の空間です。
この死を死と見て、この幻影を幻影であると見ること自体が、生きている真実の空間を開くのです。
私たちから、生きとし生きるものの中心作用である誤差を見抜くかとが、愛への第一歩です。
あなたと私からです。
真実を開くのは愛です。
7月22日

【学びのよりどころ】

【学びのよりどころ】
生きていく上での学びのよりどころはなんでしょう?
子どもも、大人もいっしょに考えます。
計りきることができないもの、
考えることができないもの、
知られていなくて、
知ることのできないもの、
生きている無量の動きそのものを
感受します。
深く感じ、見て、聞いて、尋ねて、
生きて学んでいます。
時間空間から自由で、中心はなく、
無量なる計量ゆえに静かです。
私たちは、生きた学びを知りません。
私たちが学ぶよりどころは記憶です。
記憶からの動きは時間です。
空間は限定制限された計量空間です。
幻影です。
幻影ですが、科学のために必要です。
機械的、物理的に日常生活を円滑にするため必要です。
この記憶からの学びしか知らないなら、
人間の世界はどうなりますか?
私たち人間が自分自身のありのままを理解できていない世界です。
争いを理解しないなら争います。
傷を理解しないなら傷つきます。
殺すことを理解しないなら殺します。
恐怖を理解しないなら恐怖します。
私たちは生きている学びを知りません。
学校で子どもたちはテストされます。
記憶を強化されます。
生きている学びと断絶します。
どのようにして子どもたちを救い出しますか?
誰もが記憶から自由ですか?
記憶は不完全です。
記憶は不十分です。
記憶は危険です。
記憶は過去の入れ物であり現在と断絶しています。
記憶は危険なのです。
記憶を拠点にすればコミにケーションは不可能です。
ですがこれをしています。
ゆえに危険のただ中を私たちは生きています。
子どもたちと友に自分自身の門を開きましょう。
学校で学業として授業が円滑に楽しく受けられ、なおかつ生きている学びに入っていけるよう、私たちは手助けしましょう。
7月16日
学びのよりどころは、ブラックボックスでした。
あなたと私のよりどころも、あなたの周りの人と私の周りの人も、よりどころは同じです。
記憶です。
記憶を拠点とし、記憶をよりどころとし、
動くのです。
これが行為です。
これが行動です。
これが行いです。
これが生きることと呼ばれます。
人類は記憶を条件にて行い、
そして生きています。
記憶は人類を条件付けています。
これは事実です。
この事実は今、光り輝いていますか?
それともブラックボックスですか?
なぜ人間は生きることを見失ったのでしょうか?
あなたはクリシュナムルティです。
あなたは釈迦です。
あなたはキリストです。
あなたは東京大学名誉教授です。
あなたは合衆国大統領です。
あなたは生きとし生きるものの中心です。
あなたは私に事実を告げます。
「記憶は人類を条件付けます」
「人間は生を見失っている」と。
あなたが告げた言葉を愚かな私はイメージします。
そして、「なるほど、そのとうりだ」と、
考えます。
この場を離れた私は、生を探しに回るのです。
あなたが告げた事実をよりどころとして。
記憶です。
過去におきたことと今起きていることは事実です。
記憶をともなわないならば、です。
記憶はイメージします。
記憶は考えます。
記憶は言葉で物語ります。
私たちは、子どもたちといっしょに、
人間の物語を聞いています。
7月17日
 

【ブラックボックス】

テレビやコンピューターを作ることができなくても使い方を知っていれば情報を得て交信することができます。
テレビやコンピューターはブラックボックスです。
地上にあるすべての機械はブラックボックスです。
すべての機械を作ることができる人などいないでしょう。
作ることができなくても使い方を知れば、その利便性に預かれるのです。
すべての機械がブラックボックスであるという事実において、私たちは分かち合っているでしょう。
では、私たちを分かち合えなくし、戦わせ、競争し、対立させているのはいったいなぜでしょう。
私たちが生きるために必要であり、便利である機械、助けてくれる機械だけでなく、私たちを殺すための機械があります。
なぜ、機械は間違って作られ、使用されているのでしょうか。
それは、すべての機械を作ってきた道具がブラックボックスとして覆われているからではないですか?
それは思考です。
すべての機械は思考の産物です。
すべてのシステムは思考の産物です。
この社会機構は思考の産物です。
機械はブラックボックスであっても使用できます。
思考をブラックボックスのまま使用すれば何がおきますか?
人と人とが対立し、殺し合わねばならない戦争の根本因は思考の構造がブラックボックスであることではないですか?
思考は自ら考える中心を作ります。
一人一人の経験と知識の蓄積です。
この中心からの動きが思考に支配された動き、時間です。
中心からの動き(すなわち)時間は、
生きている動きとの断絶です。
中心からの動きは現実ではなく幻影です。
このこと自体が現実です。
人類の経験と知識、すべての人間の思考と時間が中心により誤作動するのです。
これは事実です。
私の経験、私の知識、私の考え、私の時間です。
人類の経験と知識と思考と時間が、
人類の記憶が、
ブラックボックスで覆われます。
私たちは道具の構造を明確にし、権威を持ち込まず、互いに自分自身から道具の全体性を、学ばねばなりません。
私たちは、
いっしょにつくり、
いっしょに考えていきます。
7月14日

【慈悲と無慈悲】

【慈悲と無慈悲】
7月11日
目の前に様々な道具があります。
椅子は座るための、机は作業のための、
道具です。
コップは飲み物を入れるため、
お皿は食べ物を入れるための、
道具です。
私たちが家をつくるための道具はなんでしょう。
地上にあるすべての道具、
生きるための道具、
殺すための道具、
人類の道具のすべてをつくったものの正体はなんでしょう?
明らかですね。
思考です。
この道具は、いったいなぜ、間違って使われているのでしょうか?
子どもたちといっしょに考えてみましょう。
いっしょに、考えましょう。
いっしょに考えることができなくなっていることの正体を。
なぜ、いっしょに考えることができないのかを、いっしょに考えてみます。
7月12日
「かわいそうだ」と思い、
その人のために考えます。
このとき、私は考えます。
「私はいい人間です。
人の気持ちがわかり、哀れみ深く、慈悲深い優しい人間です。
私は親切に、その人のために考えなければなりません」と。
何がおきましたか、この私に?
これで、いっしょに考えられますか?
私は、憎しみをもち、悪意をもつよりましかも知れません。
しかし、どれほど違うでしょうか?
これなら、憎しみ、悪意をもたれるほうがましという人もいるでしょう。
いったいなぜ、人と人との関係は、
戦いとなるのでしょうか?
私は、道具の使い方を間違っているからです。
なぜ、使い方を間違うのか。
友よ、単純です。
友よ、使い方を知らないからです。
思考は、イメージを造り分ける道具です。
イメージし、計り、組み立てる道具です。
人間社会は、この道具で組み立てられます。
そして、この私も、この道具で組み立てられます。
思考は私の条件です。
思考によって私は条件付けられ、
組み立てられていくのです。
これの取り扱い説明書があるのです。
それは、私自身です。
私たちは、いっしょに家をつくり、
いっしょに考えなければなりません。
そのためには、お互いに自己に学び、
自己を知る必要がありますね。
それでは、イメージでできたブラックボックスを開いて、その構造を学びましょう。

【開花と道具】
家をつくる道具の使い方を学びます。
そして、いっしょに家をつくる過程を分かち合いながら、子どもたちがありのままを花開かすことができるよう、手助けします。
さて、私たちが家をつくるための道具は何でしょうか?
家はどのようにしてつくられていますか?
子どもたちと共に家をつくりながら、
同時に一人一人が人間性という花を開くためには、どのように生きればいいでしょう?
さて、いっしょに考えていきましょう。
7月7日

【子供の家づくり】

【子供の家づくり】
貧困、そして暴力、私たち自身が抱えている様々な問題に、子供たちは巻き込められていくことでしょう。
そこで、この夏(8月)から、京都市南区において、「みなみ子供の家づくり」を始めていきます。
みんなで食事をつくり、いっしょに食べます。
そして、子供たちが自分自身で、自分のありのままを育てる能力をもたらしたいのです。
比較なしに、評価から自由な心で。
理想という偽りを燃やし尽くす情熱で。
理想はウソです。
ありのままを覆い隠します。
ありのままは比較できるでしょうか?
ありのままは評価できますか?
私たちは比較し評価します。
子供たちも比較され評価されていきます。
この比較のただ中にあって、
比較なしに、
子供たちと共に、
家をつくっていくのです。
この社会から、認めてもらいたい、評価されたいと思う心は恐怖です。
この恐怖のただ中をともに生きて、
恐怖の真相を見出したいのです。
 
 
 

【平等】

【平等】
平等を求めると不平等が生まれます。
気づけますか。
不平等は、ありのままですね。
それは私自身ですね。
どうしましょうか?
そうですね、どうもしません。
不平等というありのままを見ればいいですね。
そして、分かち合います。
分かち合えれば、不平等は消えています。
平等を求める必要が消えています。
世の中の不平等は、
平等を求める心です。
いったいなぜ私は、平等を求めるのでしょう?
なぜ、平等を求めるのでしょうか?
所得欲の戦い、葛藤が世の中のありのままであることを見るからですか?
取得欲の葛藤・抗争は、知識に、関係に、所有物において現れます。
どんな形でも取得欲は、不平等性と残忍性・野蛮性を造り出します。
人と人との間のこの分割と葛藤・抗争は、外の効果と価値のたんなる改善をとおして、撤廃されるものではありません。
所有物での平等性は、私たちの拡大した包囲する悲惨と愚かさから抜け出す道ではありません。
どんな革命も、排他性の精神から人を自由にできません。
あなたは立法や法制度ををとおし、革命をとおして人を所有物から追い出すかも知れません。
しかし、彼は排他的な関係や信念にすがりつくでしょう。
違った水準でのこの排他性の精神は、どんな外的改革をとおしても、内的・外的な強制・強要や、きびしい統制・管理をとおしても、撤廃できません。
けれども、不平等性と係争・対決を生み育てるのは、この排他性の精神です。
取得欲は人を人に敵対させないでしょうか?
平等性と慈悲は、精神のどんな手段をとおしても確立できるでしょうか?
それらは他のどこかで探し出さなければならないのではないでしょうか?
この分離性は、愛において、真理においてだけ止むのではないでしょうか?
人の統一は、愛においてだけ、見つけられるべきものです。
すなわち、真理がもたらす光明においてだけです。
(静けさの発見131p)