なぜ、生き方を確かめるのか?(見出すために見て聞くこととは)

一昨日の日曜学校では見出すために聞き見ることと、

確認し、確かめるために聞き、見ていることの違いを話し合いました。

確認し、確かめたい、自分が正しい生き方を、間違った道を歩んでいないか。

不安の歩みです。

不安は、ありのままに向き合わない姿です。

恐怖を条件とする生命は、確かめるように条件付けられているようです。

8月12日、日曜学校

参加者は2名でした。

みなみ子どもの家づくり

内藤

 

見出すために見て聞き学ぶ生

 

今、自分が、どこにいて、

何を行おうとしているか?

 

見出すために、見て聞き学ぶ生が、

確かにあるのです。

どのように道具を使っているか、です。

生きている道具の使用技術です。

 

自分は、確かめようとして見て聞いていますか。

この学びは、生きることが重荷になります。

これは死せる使用技術です。

自分が今、どこにいて、何をしようとするか、

気づいていない危険な使用、生き方です。

使用している危険な機械に気づかない生です。

 

生きている道具の使用技術は自我の死です。

自我の死が生の扉を開けます。

この使用に当たっては、誰もが皆、

危険な機械構造を理解することは難しいです。

電気を使用するに当たり、

誰もがエジソンである必要はありません。

ですが、蛇口をひねれば水が出て、

電気とガスを使えるには、

多くの人たちの支えがいるのです。

 

自我の死における生きた技術が開かれるには、

多くの支えを、それは無量の支えを要します。

 

この最初の一歩が自己理解です。

この最初の一歩だけがあります。

自己が、自我が無い、という発見です。

これは発見しなければなりません。

他の誰かが言うからではなくて、です。

本に書かれているからでは無くて、です。

人間の条件が条件付けられている事実、

この条件付けを終えるでしょうか?

私たちはしまい方を学びました。

条件付けを終わりにするとき、

孤立して実在すると思いこまれる人間の条件、これを終わりにできます。

そのとき発見があります。

孤立が無いという、発見が。

自我が無いという、発見が。

寂しさと孤独は終わります。

閉じられた「私」がしまわれます。

 

【条件付け】

条件付けが終わりを告げてくれるなら、

人間の条件が見えます。

実在すると思いこんでいた、

思いこまされていた、

自己中心は、なぜ、「我あり」と感じるか?

全宇宙の存在=質量と分離した重さ=虚偽性。

この真実が開いて見えていないからです。

この重さは苦しみの重さです。

この苦の時間は、肉体の死によってだけでは、

終わりません。

次の生でも、苦しみます。

さて、どうしますか?

 

【計らない生】

計らない生き方があるのです。

比較しない生き方です。

分別しない生き方が確かにあるのです。

私たちは、

分別という道具のしまい方を学びましたね。

具体的にしましょう。

すごい猛暑です。

40度を超えています。

このような気温が何日も続きそうです。

冷蔵庫に、ブドウとスイカが冷えています。

冷蔵庫に入れる前に洗っておくのを忘れました。

食べる前にブドウを洗います。

水道の水は、お湯のようになっています。

せっかく冷えたブドウは生温くなります。

冷蔵庫に入れる前に洗うべきでした。

愚かな自分を責めています。

すべてが計量の世界です。

そうですね。

名付けられたものが計られて機能します。

ブドウ、スイカ、冷蔵庫、水道、水の機能です。

機能です。

名付けられ、計られて、機能するわけです。

計量世界です。

計量世界において計られて機能しています。

機能し計る為の物差しは言語です。

この世界は言語計量の世界です。

計量が秤にかけているのはじつは計量なのです。

計量が分割し、ブドウを計ります。

すると同時に、

ブドウと別の計量する主体、私の誕生です。

こうして、主体の理解は開かないままに、

計量技術において計られ、

みんなの利便のために機能が生み出されます。

計量世界だけが開かれているのです。

計量する主体の世界は閉じられたままです。

私自身は閉ざされたままです。

そうですね。

世界において計量技術は大事ですね。

計量技術の根本は分割です。

分割されると比較計量が始まり、

比較計量があると分割します。

科学技術はこれが根本因です。

これは人類の利便性で大事です。

ここまでは、です。

外側は、です。

外側の世界です。

では、内側はどうでしょう?

いっしょに、私自身をも開いてみましょう。

さて、怒りや欲望を計るならどうなりますか?

もしもです。

これはもしもであり、

ここに記されていることを信じるのでなく、

自分自身をとおして見出してくださいね。

もしも、すべての感情が計りだされているなら、

どうなりますか?

例えば怒りです。

計らないなら、名付けないなら、

どうなるかやってみてください。

名付けることは世界の分割です。

しっかりと仕組みを見ましょう。

「これはダメだ」

何がダメなのですか?

「このブドウはダメだ」

どのようにダメなのですか?

「冷やしておいたのに洗ってなかった」

このとき、怒りが生まれればどうなります?

私は怒りで、ブドウをゴミ箱に掘り投げます。

ブドウに怒って、です。

怒りは、言語計量のゴミ箱に捨てられます。

これに気づけずに、人にも怒りを向けます。

「こいつはダメだ」

何がダメなのですか?

「この人間はダメだ」

どのようにダメなのですか?

「使い物にならない」

私は怒りで、あなたをダメにしています。

人間をダメにしています。

自分をダメにしています。

人間である自分を。

では、どうしますか?

計量世界で怒りを持てば、

決して計量世界から出ることは無いでしょう。

比較し計ることで、計量世界の中において、

「私」は悲嘆に行き着きます。

私が計量世界です。

私はあなたでありブドウです。

比較し、計れるのでしょうか?

私はあなたです。

人間です。

ダメだと計れるでしょうか?

ブドウをゴミ箱に捨てている、

まさにその行為とその関係のすべてが怒りです。

比較計量世界は怒りであり、

世界は怒りです。

怒りの中にあって、名付けず、計らず、

比較しないならどうなりますか?

いっしょに、行っています。

このエネルギーは、時間を超えています。

分割されるエネルギーは時間です。

この分別は理解です。

時間を超えた中に自我は解体します。

見ることの真実は、

現在においてだけ、

エネルギーと融合するのです。

「見ることが行為である」と言われるのは、

現在が開き、

自我の解体が現前しているときです。

関係において、

自我が映し出され、

ありのままを見ている状態、

私が私を見て、関係に学んでいる状態が、

生きている自由であることで、

見て記憶にとどめ、

そこからの思考によって未来を開こうと行為することは機械的な反応であり、

行為ではなく、

行為の破壊であるということなのです。

見ることが行為です。

見出すために見ている状態です。

 

【生命システム「葛藤の様式」】

怒りを例にとって、

いのちのありよう、

ありのままを学んでいるわけです。

いのちのシステムがわかれば、

生きているありのままに触れられます。

すべては繋がり始め見出し始めます。

得意な科目があるとします。

その得意な科目から入れば、

すべての科目との繋がりが見え始めます。

後の細部は、なんとでもなります。

全体の仕組みをとらえるなら、

後はまだ見えていなくても、

論理を組み立てられるし、

友人たちとも分かち合えるでしょう。

共に入っていけるのです。

怒りと欲と愚かさとは、

3つの毒だとされてきました。

特に怒りは毒性が強く、お互いを破壊します。

ですが、理解すれば薬です。

怒りは見出すエネルギーです。

ですが、理解されなければ分別エネルギーです。

分別エネルギーは分別不可能なものを、

分別するエネルギーです。

生と死を分別します。

生自体を分別し、死を分別します。

後から生じる計量と比較はすべて幻影です。

何が起きていますか?

自我の生と自我の死。

非自我の生と非自我の死。

この分別です。

これにより、戦いのシステムが作られます。

これが葛藤の様式です。

この葛藤様式は、

分けることのできないものを分ける、

エネルギーの消費により維持されます。

これは怒りです。

意識に現れるときは、

この怒りは分別されます。

非常に危険なものです。

怒りの真実は無意識の層に隠れています。

分別できない怒りです。

無意識の中には存在できません。

無意識の層をスクリーンにして輝きます。

この世のものと思えない美しさを持った、

エネルギーです。

忘我をともなった自由の感覚が自我を包み込み、

解体されます。

怒りの美しさ、

これはありのままを開きます。

それはエネルギーです。

見出すためのエネルギーです。

葛藤自体が開かれ、

葛藤様式の仕組みが、

それ自体の動きを伴って、

生きた動きを展開します。

これが自己に学んでいる状態であり、

自己の門が開く状態です。

葛藤様式の仕組みが見えれば、

言語表現に依存するかぎりどうなるか、

言語表現を越えて見える状態とは、

これらの分別がつき始めます。

葛藤様式を友人たちと分かち合うことが、

可能となります。

怒りは生まれ変わり、

友人たち皆を、葛藤の様式に閉じこめて、

戦わせ、消耗させ、苦しめていること自体に、

怒りは生まれ変わるでしょう。

 

【怒り~無知~欲~エネルギー共有】

怒りが苦しみの真理を開きます。

無知と欲とに関してはまだ見えていなくても、

論理を組み立てられるでしょう。

友人たちと分かち合えるでしょう。

怒りから入らなくてもいいですよ。

どうかご自分の強く抱えているもの、

愚かだと思う方は愚かさから、

じぶんには智恵があると思う方も、

やはり愚かさからになるでしょう。

欲だと思う方は欲から、

欲が自分をつぶすので、

欲なく生きようとする方も、

やはり欲からになるでしょう。

そして、友人であるあなたは、

私のところにやってきて、

伝えてくれます。

「怒りが見えた」と。

人間たちが生きる様式は葛藤様式であり、

戦いが避けられず、

自己中心の苦しみは悲嘆に行き着く。

「このシステムを見た」と。

そして、あなたは私に告げます。

このなかで生きることは苦しく、

智恵を無くした状態、無知である、と。

そして、あなたは私に無知の論理を示すのです。

「真理は語られたときに、

真理であることをやめる。」

「だから、無知の論理を示します」

「これを自分自身で確かめることが重要です」

「真理は、言葉がありません」

「その生きている動きを見るだけです」

「人は、この見るということによって、

苦しみを解放するのです」

「この動き全体において、私はありません」

「この真実を友人に伝えるために、事実にもとづいて、論理を、仕組みを指摘することだけがあるわけです」

「私たちは、事実を、ありのままを分かち合い、

お互いに自己に、自分自身に学び、今を生きるのです」

私たち人間は、

今現在を分かち合えるでしょうか?

 

【違和感、不十分さ、不完全性】

私たち人間は、

今、この現在を、

どのように分かち合っているでしょう?

怒りがあるときに怒りを、

無知があるときに無知そのものを、

欲があるときに欲を、

この本性を分かち合っているでしょうか?

これらの分割があるだけでしょうか?

分かち合えるとき、怒りや欲を、です。

対象があるのではないでしょうか?

対象が「そうだ、許せない」というとき、

対象が「これはすばらしい」というとき、

怒りや欲を分かち合います。

これが分かち合いでしょうか?

これは無知ではないでしょうか?

無知とは、自分を知らないことです。

これは事実です。

この無知の事実を、どう開きましょう?

現在において、違和感、不十分さがあるとき、

この事実に、気づけます。

そこに、思考がやってきて告げます。

「現在は不完全だ。

人間は不完全性をいきている」

『どうすればいい』

「完全な人間など存在しない」

こうして受け入れ、順応し、

様式の中で葛藤が避けられないものと、

思いこまされています。

不完全な人間は、不完全な世界において、

戦うことが本性なのだと、言われるのです。

これは思考の仕業です。

理解しないなら、人類の仕業です。

完全な人間などいない、完全な世界など無い、

これは、どういうことでしょうか?

宇宙は完全です。

生は完全です。

これと分離したものは生でなく不完全です。

この、人間の世界が不完全であること、

生から分離していること、

この過ち、過去の誤差で機能する世界と私を見ることが、完全性を開きます。

人間世界の不完全性を見ることが、

完全性を開いてくれるのです。

違和感と不十分さに気づいておきましょう。

今、この現在において、気づくのです。

私が介入するときには、

違和感が生まれている事実、

自己主張は不十分さの現れであることに、

現在において、気づくのです。

自我の生が、断絶させる事実を、

私たちは分かち合えるのです。

葛藤の様式と、その仕組みを明確に見て、

分かち合い、そして乗り越えていけるのです。

自我の構造を知り、

自分自身に学ばないなら、

無秩序の世界を開き、

無知の人生を生きるのです。

あなたは、どう生きますか?

 

【無秩序な世界】

秩序が失われていく世界の中で、

この事実に気づけないなら、

何が始まるでしょう?

無秩序を土台にして、秩序立てねばならない、

といいます。

だれが?

もちろん思考です。

偽りの秩序です。

思考でできた秩序です。

思考は様式をつくります。

生活様式を。

その中で、「私」の安全、安心、秩序が重要です。

葛藤における無秩序の生活様式です。

対立と無秩序の要因です。

「私」を理解しないことが無秩序の要因です。

思考でできた「私」が、思考でできた国、宗教、経済、政治に秩序をもたらそうとしています。

このすべてが「私自身」であるという事実に、

気づけないかぎりは、

私たち人間の住み家である人間世界に、

秩序は無いでしょう。

「私」の分割は葛藤自体である無秩序です。

根本因は行為の分離、知識の分離、記憶の分離、

思考自体の分離です。

「私」を組み立てている行為と知識と記憶の分離に気づけないなら、

思考世界は分割され、

戦いを条件とし、

無秩序のなか消えていきます。

何度も殺し合い、戦争を繰り返しながら、

生じては滅します。

これを理解しない中で無秩序が続きます。

「私」の行為は行為ではありません。

「私」を組み立てる知識は知識でなくなります。

「私」の記憶は私を引き裂くのです。

これを理解しない中で無秩序が続きます。

あらゆるものを秩序立てようとしている、

愚かな「私」の継続です。

 

【共に生きることを学ぶ】

思考は分別の道具です。

分別思考は神経細胞の道具です。

生命に共通の道具です。

ここに、ともに生きることの学びがあります。

道具のしまい方を学び始めるなら、

同時に、ともに生きることが始まります。

道具としての生き方は終わるなら、

分別し比較される生き方が終わるなら、

機械としての生き方が終わります。

生きとし生きるものたちの中で、

人間は、新しい生き方を始められるのです。

共に生きるという無量の生き方を開けるのです。

道具のしまい方を学べるのです。

道具としての生き方が終われば、

生が始まります。

生と死の分別を越えた不死なる生が、

あなたにおいて始まります。

道具の使用者は道具です。

使用者は道具と別だと分別します。

ですが使用者は道具です。

使用者は道具と別にある大事な主体であると、

分別します。

これがいのちの起源です。

誤差なのです。

もちろんその行為は誤作動します。

これがいのちの重さ、過ちの重さ、苦しみの重さです。

分別道具は思考ですから、

クリシュナムルティが「思考者は思考です」と、

言う意味が明らかでしょうか?

分別する主体は分別です。

思考する主体=思考者は思考です。

これらは道具です。

この道具を使用する主体=使用者は道具です。

この分割構造が見えることが解放です。

この分割構造が言えないことが無明です。

いのちの重さを解き放つなら、

新しい扉が開くことでしょう。

分割され、比較され、計られる生き方、

恐怖に生きるのでなく、

分かち合われている生き方、

共に生きることが開かれるのです。

このとき恐怖は終わります。

 

【人間の責任】

分別の道具、

道具がしまわれるとき、

始めて、責任の自覚が生まれます。

人間の責任です。

道具が出しっぱなしの世界において、

人間の責任は分別されます。

責任からの逃避が生まれます。

親の責任、校長の責任、社長の責任です。

これらの責任逃れが生まれます。

この分別はあらゆる人に行きわたります。

自覚を持って、分別を理解し、人間の責任能力を開くのは自分自身からです。

相手との関係において、

相手や、環境の責任にし、非難するのでなく、

自己において、責任能力が塞がれている事実に、

ただ、気づくのです。

クリシュナムルティの言う受動的な気づきです。

判断無く、同一化無く、正当化無く、気づきます。

自分自身から、です。

相手の言っている判断、同一化、正当化に気づきます。

クリシュナムルティの言う関係の鏡において、

自己を映します。

自己理解が生まれ、自己に学ぶ状態が新たな条件です。

言葉なしに、分別の真実が見えたなら、

適切な時期を待って、言葉の鏡によって、

分別の真実を映すのです。

人間の責任が分別により、

親の、校長の、社長の責任に分けられて、

見えなくなっている事実を、

分かち合えるでしょうか?

 

『人間の責任とは、

生きとし生きるものたちすべてに、

分け隔てなく、不死なる生を

開くことではないですか?

これは人間の責任です。

他の生物にはできない人間の責任です。

あなたが開けば、

その責任能力は、

慈悲の花と開くことでしょう。』

 

【愛と死と自由=言葉の重さ】

言葉の世界を生きる自我の重さが、

言葉の重さです。

ウソをつくと、言葉の重さは増します。

自分以外の人につくウソは、

自分を欺くことになります。

言葉はそのもの自体でなく、

現実ではありません。

「私は、あなたを愛している」と言うとき、

私は、二重のウソをついています。

あなたにウソをつき、

自分自身を欺きます。

意識する愛は偽りです。

私は愛をなくしているという事実が、

無意識に隠れます。

私は、二重のウソをついています。

愛のない私は、金、神、信念、信仰、理想に助けを求めます。

この虚偽に気づけるでしょうか?

しばらくの間、宇宙の対話を聞きましょう。

いのちの物語を。

(宇宙の響き『  』宇宙の音「  」)

「どうして解放されないんだ」

『、、、』

「あなたの言うとおり、分けてない」

『、、、』

「なぜ、救われないのだ」

『おまえは今、どこに住んで、何をしている』

「おれは地球に住んで、助けようとしている」

『分けているではないか』

「どういうことなの」

『おまえは今、銀河でなく太陽系だと、

太陽系において太陽や月や火星でなく地球だと、

分けているではないか』

「他を知らないのだ、地球の他をよく知らない」

『自分自身の言葉をよく聞け』

「はい」

『地球の他を知らないのだ』

「はい、そうです」

『知っている世界、地球において他を救おうとする』

「ええ」

『分けているではないか』

「どうすればいいです」

『分けるな』

「どうすればいいのです」

『どうもするな』

「そんな、、、」

『、、、』

「なんとかしてください」

『言葉に迷わされるな、自分自身を聞け』

「聞いています。自分自身である地球の音を」

『それは誤差だと、言ったのだ』

「、、、」

『いのちの物語を聞け』

「、、、」

『誤作動するいのち、苦しみの音色を聞け』

「、、、」

『おまえ自身の音を聞け』

『宇宙の響きにおいて苦しみの音を聞き分けろ』

『言葉を越えて聞け』

『言葉は音をかき消す』

『言葉の世界を越えろ』

「どうやって」

『言葉で迷いをつくったのだ、

言葉は本物でない、わかるな』

「わかりますが、どうしたら」

『言葉で迷いから出してやれ』

『その際に、分けるな』

『相手はおまえだ』

『救われるのは、おまえ自身だ』

「どうしても分けてしまいます」

『宇宙はおまえを映す鏡だ』

「、、、」

『己を見、己を聞き、己を生きることで知れ、

生きとし生きるものの苦しみを』

「聞こえる、宇宙の音と響きが」

『それが苦しみの終わりだ』

『地球を愛するのだ』

「あいしています」

『いいや、愛はそれではない、言葉ではない』

『言葉たちが迷いの世界にあることを聞くのだ』

『響きにおいて音を聞くように聞け』

「わかります」

『いいや、わかっておらぬ』

『再び生じくる、苦しみの音を聞け、

言葉なしに』

「見える、苦しみが」

『地球の苦しみはおまえとは別か』

「地球の苦しみはわたしです」

『生きとし生きるものの苦しみはおまえと別か』

「生きとし生きるものの苦しみはわたしです」

『それは言葉で分けられた苦のイメージか』

「いいえ、地球の苦しみを感じるのです」

『その苦しみを解放してやろう』

「いいえ、この苦しみこそを生きていきます」

『救いは、今ここにある、求めよ』

「いいえ、隣人の苦しみは地球の苦である、

私自身です」

「この苦しみをどうすることもできません」

「あなたに救いを求めることは間違っています」

「わたしは苦しみを生き抜く覚悟です」

『おまえは音において言葉の苦しみをきいた』

『おまえは音においてその響きを感じた』

『おまえの苦しみはわたしだ』

 

《わたしはおまえだ》