地球を救う忍法

昨日の子ども食堂は32名参加。

食事は、お好み焼き、焼きそば、サラダ、おやつとかき氷でした。

1,小学4年生男子6名で、地球を救う忍法を開発します。

2,子ども食堂の出前をして、近隣に種まきを始めます。

3,来週の子ども食堂は、お盆休みです。

みなみ子どもの家づくり

内藤

 

 

 

ルールブック9(生死の解除)

さて、分別あるときは誤作動しており二重ロック状態です。

分別が止むときには誤作動は緩やかになり始めます。

誤作動を誤作動であると見ることが、誤差の発見です。

自己中心が消えて、罪の重さは解かれるのです。

 

このように、生と死の問題を開けることは可能でしょうか?

地上で、たった一つかも知れない死の問題。

地上で、無数にあるかも知れない生の問題です。

私たちは、この問題を、どのように開くのでしょう?

 

死の門。

その入り口は「私」です。

自我です。

自分自身です。

自分自身の身近な日常の出来事から入りましょう。

そこは、ことばでできた迷いの世界です。

囚人にとっての監獄です。

イメージの壁で囲われています。

行為を誤作動させ葛藤を、対立を起こすことで、

囚人の力を奪います。

脱獄できないように、です。

鍵穴は、「私」の中心、自己中心性です。

鍵は二重構造を持ち、表面の鍵穴は二極性でロックされます。

自分自身が所属している場で、

判断していることに気づくこと、

非難していることに気づくことです。

所属している場所はロックされています。

判断、非難は二極性の鍵穴です。

判断なしに非難なしにアプローチできないなら、

少なくともその事実に気づいておくことです。

行為する主体なしに、です。

行為は死物です。

アプローチできません。

この事実が見えれば鍵穴はおそらく開き始めるでしょう。

囚人をつなぐ鎖、時間が止まり始めます。

いつのときにも「私」を恐れさす恐怖の現れです。

死の門をロックしている恐怖の現れです。

恐怖の二重構造。

それは、囚人をつなぐ時間と囚人をロックしている考えです。

それは、囚人の時間と思考です。

恐れの考えは事実として恐怖の思いでロックされます。

囚人の説明はロック解除ではありません。

あなたが囚人を解除するのでもありません。

あなたが、どうか、自分自身を解除してください。

それは、囚人の解除です。

時間は、現在を分割します。

過去と未来へ。

現在は過ちの重さで閉じられます。

恐怖の考えでロックされます。

恐怖の考えは時間の重さです。

恐怖の思考は時間です。

思考は時間です。

分割が止みます。

時間だけが見え始めるなら、

その動きが解除です。

 

死の門が開くと生きることが元気にしてくれます。

元気さで、あなたは、友人たちの生を開いていかれます。

苦しみと悲しみ、恐れや不安にロックされた、

友人たちの生を開くことができるのは、

あなたです。

死は全行為を静寂に導く門です。

静寂はそれ自身が生きた理解です。

あなたが聞いている音。

あなた自身である静寂はすべての音です。

 

ルールブック10(日常生活の心得)

正しい瞑想。

瞑想の条件は、瞑想者の状態です。

非常に単純にします。

この条件すなわち状態は、トータルな否定において開きます。

鍵穴が見え、空間が開き、時間構造が暴かれます。

瞑想者の状態です。

自己中心の重さが瞑想者の理解へと変容するのです。

瞑想者は、思考する主体、経験の主体、知識の蓄積者です。

この主体である蓄積者は感情を持ちます。

蓄積者の感情は反射、反応、応答します。

感情がすべての応答をし、

またすべての応答により感情が生じます。

このすべては心と分離しています。

すなわち誤作動により生じる過ちの主体です。

このすべてが瞑想者です。

行為のすべて思考のすべて知識と経験のすべてを否定し尽くします。

このとき注意するてんは、自己自身をも含めて否定すること。

お互いに相手の立場に立って、共にトータルな否定、

自己中心からの全否定に注意することです。

それは自己中心から否定できていないことへの注意です。

瞑想者の理解は自己に学ぶ理解の道です。

自己の野心、到達、達成、成功への動き、欲望の動き、

悟りたい、解脱したい、涅槃を得たい、自由になりたい、

幸せになりたい、社長になりたい、大臣になりたい、名誉教授になりたい、なりたい自己中心からの気づきと注意です。

トータルな欲望の動きです。

すべての思考、すべての感情に気づいてください。

正しい瞑想の道は瞑想者への道です。

瞑想者は欲望です。

思考と感情の主体を開く道なき道です。

それは、気づきからです。

ありのまますべてに気づいてください。

ありのまますべての気づきから中心への注意力です。

注意する力が自らの中心を開くなら、

主体の理解が開き始めます。

気づきから注意の中心。

そして力の訪れです。

注意の中心力が解かれます。

中心があるときは消耗する力です。

誤作動です。

消耗する誤作動である「私」は、

未来のイメージにすがります。

神の横にいる、大臣の横にいる、経営陣の席に座るイメージ。

過去に傷つけられてきた「私」が、

未来には傷つけられない防御服を着ている「私」です。

イメージです。

イメージからイメージへ移りゆこうとする「私」。

消耗する誤作動の「私」。

誤作動が見え始めるとき、静けさが音を聞きます。

中心の音が響きを残して消えゆきます。

中心が開かれる力は、消耗する誤作動が止むとき、

トータルな否定において、です。

トータルな否定において自我を解体する中心が現れます。

自己中心の盲点が開かれるのです。

注意力は自我を見る力です。

こうして自己に学ぶ瞑想者への道が、

正しい瞑想状態を開いてくれるのです。

 

正しい言葉。

瞑想には、言葉がありません。

言葉は、計る道具です。

生きているありのままとは、断絶しています。

ですから瞑想には、言葉がないのです。

瞑想が死んでしまうと言葉になります。

正しい言葉があるためには、死の理解を必要とするでしょう。

言葉は、そのもの自体ではないからです。

言葉の世界は、死刑囚の監獄です。

死の理解がないかぎりは、怯え続けます。

言葉は、死の世界です。

この理解は、ものすごい慈悲を生み出します。

正しき言葉は、死の理解です。

慈悲が語られるのです。

 

欲望の住む世界。

欲望たちが生活しているありのままを理解することは、

ことのほか重要です。

この囚人が持つ決意、行為、努力を理解してください。

意識的な決意「脱獄する」決意と努力。

無意識からくる「やるせなさ」がやがては順応します。

この意識と無意識を隔てる獄舎の壁は、

薄っぺらです。

とても単純なしくみです。

意識にも無意識にも、

さほどの意味はないかも知れません。

「脱獄する」決意や努力を要するでしょうか?

事実が見えれば自由です。

脱獄を要しません。

「それでも事実のしくみが知りたいって!」

それは直接、監獄に出向いて、囚人に面会してください。

そのときの熱意に敬意が生まれるなら、

ありのままが語られることでしょう。

さて、ルールブックに戻ります。

一人一人は、自分の重さに、実体があると思います。

罪の重さに実体があると思いこみます。

「我あり」との感情を持たされます。

瞬時に変わりゆく世界に惑わされ、

恒常性があると感じさせられています。

苦しみの世界で、つかの間に訪れる楽に迷っているのです。

腐敗した世界において、

映し出される自分のまわりだけでも

せめては清らかにしようとあがきます。

これが欲望たちの生活です。

これは力の消耗において維持されてはいますが、

やがて破壊され悲しみに至は必然です。

欲望は力の消耗により破壊へ至る生活です。

自分自身を知り、

自分自身に学べば、

明らかでしょう。

ここから、正しい生活、正しい決意、正しい努力、

正しい行為が生じることでしょう。

 

人生の問題(法と術について)

生きている問題を開けるための方法、

手段はありません。

問題の解き方は無いです。

生きている問題を開けることが、じつは答えなのです。

問題を開けることが答えです。

さて、これはどうゆうことでしょうか?

問題と答えとが別にあるもの、

これには方法があります。

多くの方が答えに行き着かれるでしょう。

私たち人間が生み出してきました方法すべては、

じつは法と術が生み出すのです。

法と術が生み出す方法は、

分割計量をもととし、

制限された空間(計量空間)において、

時間としての方法により達成されます。

過去の問題が現在を分割している様々な方法により、

未来の理想を達成しようとしているのです。

現在の問題に方法でアプローチし、回答を得ようとする動き、

これが力を消耗させるのです。

答案用紙に答えを記入するならば、これでいいでしょう。

いいえ、これでさえ環境や年齢に応じて、

適材適所に方法を変える必要があります。

生きている自分自身が抱えている問題、

これに方法を導入し、回答を得れば、

おそらく得るでしょうが、どうなりますか?

実際に、どうなりました?

その得られた答えは、

自分自身に再び襲いかかる、

新たな問題となります。

これを続けていくと、

「私」は、いったいどうなりますか?

すごい消耗です。

くたびれ果てます。

どこにも行き着くことがありません。

もう少し、具体的にしましょう。

「私」は怯えています。

恐怖があります。

恐怖は「私」自身です。

これが問題です。

「私」にとっては大問題です。

「私」は怯えていますので、安心が欲しいわけです。

安全でありたいのです。

セキュリティーを導入したいのです。

様々な、方法を試しますが、今ひとつです。

「あー、これで安心だ」といった尻から、

なぜだか不安です。

なぜでしょうか?

まだ足りていないからですか?

お金が、より多くあれば安心なのでしょうか?

「いいえ、そうではありません」と言わないでね。

みんなが、これを欲しがり、

そしてより多く持とうとしています。

そうですね。

より多く、もっともっと、です。

そうですね。

比較が、人間社会で何をもたらしていますか?

そして地位、それから名声です。

社会に認められることです。

肩書きが「私」の安全を守ってくれるでしょうか?

地位は「私」を守り、

名声はセキュリティーになるでしょうか?

地位と名声のおかげで、泥棒に入られます。

盗まれるかも知れません。

お金を。

「地位や名声は盗めない」って。

いいえ、殺されるかも知れません。

「私は死んでも名を残したい」って。

どれほどですか?

百年、千年ですか?

あなたが今、生きている神経細胞は、

200万年以上の生死の結果です。

言葉の歴史は浅いのです。

言葉は消えて無くなります。

名前が消えゆくのも、瞬時です。

あなたはこのことを知っています。

わかっているのに、やり続けます。

金と神と地位と名声、人間社会での認可です。

求め続けます。

どこに安心がありますか?

名付けられた、その名の声を聞きます。

名声を聞きます。

金と神と地位とに様々な名前があります。

その名前は、様々に説明されます。

名声の声を聞きます。

この言葉に反応して心が動き、形作られます。

こうして言葉の世界が開かれるのです。

これは真実の美しい世界ではありません。

美しい大地、美しい花、美しい青空の世界ではありません。

言葉の美しさにすぎません。

言葉はそのものでなく、造花の美しさです。

言葉でできた映像の世界です。

言葉の世界を解くとき、言葉は消えます。

無明において形が光となり動き始めます。

生きている美が開き始めるのです。

ロック解除です。

自己中心の門です。

そこから表に出るのです。

すべては、つくられた美ではありません。

物理的な肉体が持つ眼、

光をとおして形と色が映し出されます。

言葉は消えています。

この世界はあなたです。

あなたが世界です。

すべての問題は解消されます。

問題をつくるのは「私」です。

「私」が問題です。

この問題が私たちみんなに分け持たれているとき、

問題が開き始め新しい生き方が生まれるかも知れません。

世界の問題が私の問題です。

世界の問題と別に存在する「私」の問題があるとき、

誤差が生まれるのです。

「私」は人間の世界で誤作動を続けます。

分割あるところ、誤差が生じ誤作動します。

分割あるところ制限があり条件付けられます。

分割あるところ葛藤があり恐怖の空間を生きます。

これは法です。

この法を見る術、聞く術、学ぶ術があるのです。

この法と術がすべての方法を生み出すのです。

ですから、いかなる方法もないのです。

生き方が方法です。

私たちは、いっしょに考えて、

新しい生き方を見出しましょう。

 

ゲームの終わり。

「私」の終わりがゲームの終わりです。

分割は終わります。

自己と非自己の分割の終わりです。

生きている問題分割の終わりです。

ゲームオーバーです。

さて、ゲームが終わったので、今度はいっしょに、

監獄をつくってみましょう。

実際に、今から、造り始めますが、道具はなんでしょう?

監獄を造る道具は、なんだと思いますか?

今まで、監獄のしくみ、カラクリを聞いてきたわけです。

そして、どのように囚人がつながれているのかを、

ともに生きることで、学び始めているわけです。

私たちで、監獄を造ることができ、

囚人を収監する技能を身につけるなら、

囚人を解放することは、

いともたやすいことでしょう。

今、囚人ゲームは終わりましたが、

再び行うに当たっては、生きた対応が(死んだ知識対応ではありませんよ)囚人を自由にすることでしょう。

ですから、監獄をつくるための道具です。

なんでしょうか?

思考です。

考えること自体です。

そうですね。

人類に共通する道具、思考ですが、

その使い方を学ぶことは人間教育の中心です。

この中心教育をどこかの学校で行っていますか?

ですから、あなたと私で始めるのです。

これが私たちで開こうとしている日曜学校の意味です。

学校で行われることは、何を考えるか、です。

日曜学校で行うことは、どのように考えているのか、です。

眼鏡屋さんに行きます。

「見えにくくなりました」

近眼が進んだのか、乱視が混じっているのか、

老眼が始まったのか?

眼鏡屋さんには見え方を計る機械があります。

眼鏡屋さんを支える人たちはメガネを考えているのです。

何を考えるかで支え合っています。

「君の考えはすばらしい!我が社に取り入れよう」

「ホー、まずまずの考えですね」

「なんですか、君の考えていることは」

「考えが浅いですね、もう少しがんばってください」

「なんですか!この考えは、ダメじゃないか!」

これが私たちに起きていることですね。

学校では、教科について考えますね。

算数について、考えます。

「みんなの考えが正しく働いているか、テストしましょう」

「成績優秀ですね」

「まずますですね」

「もう少しがんばりましょう」

「これでは危ういですよ」

「あなたは進級できません」

何を考えるかで、学校も、会社も、あらゆる組織が、

支えられていますね。

これは世界中で起きていますね。

では、なぜ、どのように考えるのかをいっしょに開いて、

考えるとはどのようなことなのかを、

共に、共に、いっしょに、

なぜ、見出さないのでしょうか?

あなたの答えはなんですか?

比較し、評価し、順位をつけるためでしょうか?

価値付けが可能になるからでしょうか?

できる人間を発掘するためですか?

人間の価値は比較で見出せるのでしょうか?

比較でできた精神は、比較に依存します。

比較するための道具に依存するのです。

言葉に依存します。

私たちが見てきたように、依存はみんなの幸せを破壊します。

比較は、みんなの幸せを破壊するのです。

言葉で比較されできた精神は、

言葉で比較され生み出されていくすべての感情を、

理解するでしょうか?

比較しない精神、言葉に依存しない精神は、

可能でしょうか?

分別しない精神です。

分別のすべてが苦しむことを理解する精神です。

言葉で縛られ、比較される精神の苦悩を見るなら、

言葉なしに、比較なしに見えるなら、

慈悲の心で、ありのままを話せるかも知れません。

ゲームは終わりました。

道具を終いましょう。

生きている静けさが、すべての音を聞いています。

 

道具のしまい方。

最後に、道具のしまい方を学んでおきましょう。

単純にします。

道具箱は道具です。

この理解が道具のしまい方です。

道具が終われますと、実際にもう一人との関係は、

開き始めます。

今から、これを現実に試してみてください。

道具が出しっぱなしでは、

イメージとイメージが比較し合う関係です。

イメージとイメージが分割される関係であり、

関係ではなく、孤立を生みます。

孤立して生きるものはなく、虚偽を生じ、誤作動状態です。

道具箱は道具です。

道具箱は、分別をしまう箱です。

分別は道具です。

この道具は終われたことがあるのでしょうか?

出しっぱなしです。

他の道具とは違うのですから、

どうか「私はしまいました」とは言わないでください。

「どうしてか」って。

「私はしまいました」と言えないからです。

「なぜなの」って。

「私」が分別だからです。

さて、わかり始めています。

出しっぱなし状態は、イメージ世界における関係、

イメージとイメージとの人間関係です。

そうですね。

イメージとイメージは比較し合い傷つけられます。

わかりますね。

傷つけられたイメージは苦しみのなか戦い続け、

やがては悲嘆に行き着きます。

見え始めましたか。

「悲しみを分別できますか?」

自分自身に問うてください。

言葉をしまいましょう。

道具箱に。

言葉があるときには悲しみの音色を聞きません。

言葉は悲しみの分別です。

言葉は悲しみを理解できません。

悲しみの分別は悲しみを理解できません。

言葉をしまいましょう。

言葉は音です。

長い言葉はノイズです。

道具箱は静寂です。

静寂が道具箱です。

静寂において、すべての音は存在できるのです。

しまい方が見え始めました。

すべての音を聞きます。

電車の響き、

犬の遠吠え、

カラスの鳴き声、

自転車のベル、

赤ちゃんの泣き声を聞いてください。

すべての音を聞いてください。

そして、悲しみの音色を聞くのです。

悲しんでいる人の声を聞くのです。

そして、その言葉を聞いてください。

「私」の中にその言葉に対応する言葉が生まれます。

これは言葉と言葉の関係です。

これはイメージとイメージの関係です。

これは関係の破壊です。

このノイズを聞きましょう。

誤作動しているノイズを聞くのです。

すると「私」の言葉は消えて悲しみの言葉だけになります。

言葉の音色を聞いてください。

その音色には響きがあります。

それは生きている悲しみの響きです。

言葉である道具が終われるときの響きを聞いてください。

悲しみは終わりました。

今、あなたと私の悲しみは終わりました。

二人は別れますでしょう。

ですが、別々の人間ではありません。

同じように悲しみを理解する人間として。

今、悲しみは生まれ変わります。

 

 

おさらい。

人間性開花のプロセスと人間破壊を知ること=自己知」

計量の真理と行為=「計量の真理が関係の接着剤」

質量と計量の関係と行為=宇宙と生命の関係と行為

(色と空・観察者と観察対象・眼~意と色~法・などなど)

 

自己理解のプロセスとは

理解は、1,今・2,ここで・3,生きた力を要すこと。

事実ありのままは、

  • 今が時間で・遮断している。
  • ここは葛藤対立・混乱している。
  • 力は消耗し・分割している。

 

1=今、共に、時間を捨て、蓄積知と経験を捨てる。

2=判断を捨て空間に過去を譲る(時間拠点を譲る)

3=協力が破壊されている事実を分かち合う

 

論理を知るだけでは理解を分離する=ではどうする?

人間の問題を開き学ぶ・見る・聞く=3術を開く。

どのように=自己の問題を人類の問題として

そしてまた=人類の問題を自己の問題として

そして=身近なもう一人と人間問題として分かち合う

 

3術を持って、ありのままを生き、人間中心の種を育てる。

開花の過程で開花という結果が出ても脇に置く。

3術を、献身の愛で、友人たちに与える。

与える主体なしで、与える。

愛が与える。

 

さあ、これを、今から始めてください。

明日からではなく。

自分の家庭で、父母兄弟と親子で。

自分の職場で、上司と部下と同僚たちで。

自分の学校で、教師と生徒と友だち同士で。

 

まだ、開花してないので、「不安だ」ですか?

大丈夫、日曜学校に来てください。

いっしょに考えましょう。

 

さあ、一歩踏み出そう。

 

みんなの家づくり事業 日曜学校

「囚人ゲーム」より。