みなみ子どもの家づくり 「かけがえのないもの」

みなみ子どもの家づくり 

6月5日 子ども食堂と日曜学校の報告

 

この事業では現在、子ども食堂と日曜学校を行っております。

 

昨日(毎週火曜日)の子ども食堂も、多くの子どもたちでにぎわいました。

恒例の心の食事は、前回に引き続き、

「かけがえないもの」を分かち合いました。

 

かけがえのない命が、

「かわりはいくらでもいますよ」

と言われるのは、

いったいなぜか?

私たちはどう考えるだろうか?

これを食してみるわけです。

 

「かけがえのないもの」という言葉を、

私たちは知っています。

聞いたことがあるし、

自分でも気づかずに使っているでしょう。

「かけがえない命です」

聞いたことがあるでしょう。

 

なんの命でしょう?

豚肉の命、鶏肉の命、又は魚の肉の命でしょうか?

 

すると突然、

小学校2年の男の子により、

物語が始まります。

「ミーちゃんが死んだん。大事にしてかわいがっていた子猫。僕には、かけがえのない子猫やったんや。」

「そやね、確かにかけがえない命やね。

君の大事な子猫のお葬式は、もう終わったか?」

「えー、そんなんできんの?」

「今から、私たちで、ミーちゃんのお葬式、いっしょにしてあげよか?」

「(こっくりとうなずく)」

「今から、かけがえのない命を開くため、お葬式を始めます。」

「はい。」

「これは、この世でたった一度だけのもので、繰り返すことはできません。なぜか解りますね。」

「かけがえがないからです。」

「これは儀式とは違っていて、やり方などはありませんし、誰かに頼ってはできません。お釈迦様やキリスト様にもかけがえを頼むこと、かわりを頼むことはできないし、そのお弟子さんたちであるお坊さんや神父さんにも頼れません。」

「うちらの、お葬式は神父さんがしてくれます。」

「そうですか?神父さんはお葬式のかわりをしていませんか。お坊さんがお釈迦さんでないように、神父さんはキリスト様ではありません。そうですね。」

「・・・」

「神父や、坊主は、死んだその人に出会ったことさえないやろ。だから、かけがえのお葬式をするのです。

私たちがやるのは、かけがえのない命を開くこと。かけがえのないお葬式。わかるか?」

「うん。」

「それは、君と、えーっと、名前なんやったっけ。」

「ルイ」

「ルイ君とミーちゃんとでやるんや。」

「先生は助けてくれはらへんの?」

「私は知らんやろ、ミーちゃんのこと。餌をあげたことも、だっこしたことも、遊んだこともあらへんやろ。知っている命やないとかけがえになってしまうんや。」

「何となくわかるけど、、、。」

「ハッキリと見えへんのやね?」

「うん。」

「眼をつむってごらん。」

 

「ミーちゃんが見えるか?」

「ちょっと待って」

「静かに見まもっとくから。

みんなも静かにルイ君を見まもって欲しい。ルイ君のなかでミーちゃんがよみがえるのを、みんなで待っとくから。

ルイ君、ルイ君のなかでミーちゃんがよみがえったら、ミーちゃんがいなくなるまで眼を開けてはいけないよ。わかった。」

「うん」

 

5分ほど経ちました。

ルイ君が目を開けると、

「ミーちゃんが、いってしもた」

 

「ルイ君。それが、お葬式なんや」

「もう、合えへんの?」

「お葬式を終わりにして、ルイ君とミーちゃんの新しい命、かけがえのない命を開くことができる人は、この世の中で一人しかいないのや」

「だれ?だれなん?」

 

「ルイ君や。

自分でも解るやろ、

これできるの、自分しかいないこと。

わかるやろ、ルイ君。」

「うん。」

「かけがえのない命、

これを開くのは君自身や。

これを開かないかぎり、私の命は、かけがえの命、見せかけの命、形だけの命、ウソの命や。

かけがえられてしまう命を終わりにすれば、

かけがえのない命が開きはじめる。」

 

「お父さんとお母さん方、

これは自分自身とイメージとが、

どのように関係しているかを見なければならず、

これこそは、お父さんとお母さんと子どもとでいっしょにやらねばなりません。

見るときには、瞬時にイメージしてるからです。

イメージそのものが、

いったい何であるのかを知るには、

イメージを媒介しないで、イメージを見なければなりません。

私たちは、イメージなしに見れますか?

 

どうか、この事実を、子どもと分かち合って欲しいです。

そして、問題が発生すれば、

対話する学校、

ありのままを生きる学校、

学校をつくっていく学校、

日曜学校に来てください。

みんなでつくっていきましょう」

 

みなみ子どもの家づくり

内藤