【断片化と全体性】

【断片化と全体性】
暴力に巻き込まれてしまいます。
このとき、どうしますか?
恐怖します。
戦います。
逃げます。
どれも理解ではなくて断片化です。
わかりますね?
「どうしよう?」
考え込みます。
そして、友人に相談します。
「お釈迦さんならどうしたろうか?」と。
又は、
「キリスト様ならどうするだろう?」と。
又は、弁護士に頼みます。
法律で解決しましょう、と。
このすべては断片化です。
わかりますか?
心の断片化です。
心が知的に組み立てられたのです。
知識は人類のものです。
法律も聖書も仏典も知識です。
科学も技術も学問体系も知識です。
宗教も政治も文化も文明も伝統もです。
知識でできています。
知識は人類のものです。
これら知識でできたもののすべてが断片化していきます。
なぜですか?
私が知識でできているからですか。
根本因は私です。
これら知識を私の経験に引き寄せてきて記憶内容を造ります。
これが私ですね。
記憶内容が私です。
そうですね。
記憶内容は人類の知識の断片化です。
私と人類とが断絶します。
この私の構造は誰とでも戦いであり、心の中で葛藤ですね。
この論理はわかりますよね?
では、実際には、どうしますか?
どうか、どうもしないで見てください。
そのままの状態で、
ありのままを生きてみましょう。
暴力のなかを、です。
戦いのなかを、です。
恐怖のなかを、です。
物理的な危険に対しては、すぐに反応してくれるでしょう。
無意識ですよね?
心理的にはどうですか?
意識的な精神は今どうですか?
人類の心は断片化しています。
それが私です。
数えられない人間たちの断片化です。
それが私です。
どうすれば、
この私は安定するでしょうか?
どうすれば、この意識的な精神は、
平静さをもたらすのでしょうか?
どのようにして意識の表面的な諸層に、平静さをもたらすのでしょうか?
これは回避不可能な応答です。
ですが、それは間違った問ではないでしょうか。
これは意識的な精神により立てられた問いではないでしょうか。
ですから、それはやはり即時的な精神の活動ではないでしょうか。
それ自体を明瞭化する作用・行動こそがやはり、意識的な精神の活動なのでしょう。
ですから、意識的な精神は、もう一つの方向にだけ、やはり活動的なのです。
そのとき重要なことは、あるものに気づくことです。
この表面的な精神の落ち着かない活動に気づくことです。
それを拒否したり、それを正当化したりすることなく、それに気づくことです。
そのずるい代替物、その散漫、そのずるさに気づくことです。
意識の表面的な諸層に気づくようになることではなく、気づいていることにより、平静さが訪れます。
非難や正当化がないかぎり、まさにその気づきこそが理解をもたらします。
精神はそれ自体の活動に気づいているので、穏やかさをもたらすのです。
気づいてください。
単純に習慣に気づくのです。
すると、習慣の理解と終わりがあるでしょう。
精神は極度に活動的です。
速いものは、減速して遅くしないかぎり、理解できません。
精神がそれ自体を遅くすることは、とても困難です。
あらゆる思考と感情が完全に考えぬかれ、感じぬかれるなら、それはできるのです。
充分に考えぬき、感じぬくには、どんな同一化や非難もあってはなりません。
5月25日(静けさの発見より)