【慈悲と無慈悲】

【慈悲と無慈悲】
7月11日
目の前に様々な道具があります。
椅子は座るための、机は作業のための、
道具です。
コップは飲み物を入れるため、
お皿は食べ物を入れるための、
道具です。
私たちが家をつくるための道具はなんでしょう。
地上にあるすべての道具、
生きるための道具、
殺すための道具、
人類の道具のすべてをつくったものの正体はなんでしょう?
明らかですね。
思考です。
この道具は、いったいなぜ、間違って使われているのでしょうか?
子どもたちといっしょに考えてみましょう。
いっしょに、考えましょう。
いっしょに考えることができなくなっていることの正体を。
なぜ、いっしょに考えることができないのかを、いっしょに考えてみます。
7月12日
「かわいそうだ」と思い、
その人のために考えます。
このとき、私は考えます。
「私はいい人間です。
人の気持ちがわかり、哀れみ深く、慈悲深い優しい人間です。
私は親切に、その人のために考えなければなりません」と。
何がおきましたか、この私に?
これで、いっしょに考えられますか?
私は、憎しみをもち、悪意をもつよりましかも知れません。
しかし、どれほど違うでしょうか?
これなら、憎しみ、悪意をもたれるほうがましという人もいるでしょう。
いったいなぜ、人と人との関係は、
戦いとなるのでしょうか?
私は、道具の使い方を間違っているからです。
なぜ、使い方を間違うのか。
友よ、単純です。
友よ、使い方を知らないからです。
思考は、イメージを造り分ける道具です。
イメージし、計り、組み立てる道具です。
人間社会は、この道具で組み立てられます。
そして、この私も、この道具で組み立てられます。
思考は私の条件です。
思考によって私は条件付けられ、
組み立てられていくのです。
これの取り扱い説明書があるのです。
それは、私自身です。
私たちは、いっしょに家をつくり、
いっしょに考えなければなりません。
そのためには、お互いに自己に学び、
自己を知る必要がありますね。
それでは、イメージでできたブラックボックスを開いて、その構造を学びましょう。

【開花と道具】
家をつくる道具の使い方を学びます。
そして、いっしょに家をつくる過程を分かち合いながら、子どもたちがありのままを花開かすことができるよう、手助けします。
さて、私たちが家をつくるための道具は何でしょうか?
家はどのようにしてつくられていますか?
子どもたちと共に家をつくりながら、
同時に一人一人が人間性という花を開くためには、どのように生きればいいでしょう?
さて、いっしょに考えていきましょう。
7月7日

【子供の家づくり】

【子供の家づくり】
貧困、そして暴力、私たち自身が抱えている様々な問題に、子供たちは巻き込められていくことでしょう。
そこで、この夏(8月)から、京都市南区において、「みなみ子供の家づくり」を始めていきます。
みんなで食事をつくり、いっしょに食べます。
そして、子供たちが自分自身で、自分のありのままを育てる能力をもたらしたいのです。
比較なしに、評価から自由な心で。
理想という偽りを燃やし尽くす情熱で。
理想はウソです。
ありのままを覆い隠します。
ありのままは比較できるでしょうか?
ありのままは評価できますか?
私たちは比較し評価します。
子供たちも比較され評価されていきます。
この比較のただ中にあって、
比較なしに、
子供たちと共に、
家をつくっていくのです。
この社会から、認めてもらいたい、評価されたいと思う心は恐怖です。
この恐怖のただ中をともに生きて、
恐怖の真相を見出したいのです。
 
 
 

【平等】

【平等】
平等を求めると不平等が生まれます。
気づけますか。
不平等は、ありのままですね。
それは私自身ですね。
どうしましょうか?
そうですね、どうもしません。
不平等というありのままを見ればいいですね。
そして、分かち合います。
分かち合えれば、不平等は消えています。
平等を求める必要が消えています。
世の中の不平等は、
平等を求める心です。
いったいなぜ私は、平等を求めるのでしょう?
なぜ、平等を求めるのでしょうか?
所得欲の戦い、葛藤が世の中のありのままであることを見るからですか?
取得欲の葛藤・抗争は、知識に、関係に、所有物において現れます。
どんな形でも取得欲は、不平等性と残忍性・野蛮性を造り出します。
人と人との間のこの分割と葛藤・抗争は、外の効果と価値のたんなる改善をとおして、撤廃されるものではありません。
所有物での平等性は、私たちの拡大した包囲する悲惨と愚かさから抜け出す道ではありません。
どんな革命も、排他性の精神から人を自由にできません。
あなたは立法や法制度ををとおし、革命をとおして人を所有物から追い出すかも知れません。
しかし、彼は排他的な関係や信念にすがりつくでしょう。
違った水準でのこの排他性の精神は、どんな外的改革をとおしても、内的・外的な強制・強要や、きびしい統制・管理をとおしても、撤廃できません。
けれども、不平等性と係争・対決を生み育てるのは、この排他性の精神です。
取得欲は人を人に敵対させないでしょうか?
平等性と慈悲は、精神のどんな手段をとおしても確立できるでしょうか?
それらは他のどこかで探し出さなければならないのではないでしょうか?
この分離性は、愛において、真理においてだけ止むのではないでしょうか?
人の統一は、愛においてだけ、見つけられるべきものです。
すなわち、真理がもたらす光明においてだけです。
(静けさの発見131p)

【断片化と全体性】

【断片化と全体性】
暴力に巻き込まれてしまいます。
このとき、どうしますか?
恐怖します。
戦います。
逃げます。
どれも理解ではなくて断片化です。
わかりますね?
「どうしよう?」
考え込みます。
そして、友人に相談します。
「お釈迦さんならどうしたろうか?」と。
又は、
「キリスト様ならどうするだろう?」と。
又は、弁護士に頼みます。
法律で解決しましょう、と。
このすべては断片化です。
わかりますか?
心の断片化です。
心が知的に組み立てられたのです。
知識は人類のものです。
法律も聖書も仏典も知識です。
科学も技術も学問体系も知識です。
宗教も政治も文化も文明も伝統もです。
知識でできています。
知識は人類のものです。
これら知識でできたもののすべてが断片化していきます。
なぜですか?
私が知識でできているからですか。
根本因は私です。
これら知識を私の経験に引き寄せてきて記憶内容を造ります。
これが私ですね。
記憶内容が私です。
そうですね。
記憶内容は人類の知識の断片化です。
私と人類とが断絶します。
この私の構造は誰とでも戦いであり、心の中で葛藤ですね。
この論理はわかりますよね?
では、実際には、どうしますか?
どうか、どうもしないで見てください。
そのままの状態で、
ありのままを生きてみましょう。
暴力のなかを、です。
戦いのなかを、です。
恐怖のなかを、です。
物理的な危険に対しては、すぐに反応してくれるでしょう。
無意識ですよね?
心理的にはどうですか?
意識的な精神は今どうですか?
人類の心は断片化しています。
それが私です。
数えられない人間たちの断片化です。
それが私です。
どうすれば、
この私は安定するでしょうか?
どうすれば、この意識的な精神は、
平静さをもたらすのでしょうか?
どのようにして意識の表面的な諸層に、平静さをもたらすのでしょうか?
これは回避不可能な応答です。
ですが、それは間違った問ではないでしょうか。
これは意識的な精神により立てられた問いではないでしょうか。
ですから、それはやはり即時的な精神の活動ではないでしょうか。
それ自体を明瞭化する作用・行動こそがやはり、意識的な精神の活動なのでしょう。
ですから、意識的な精神は、もう一つの方向にだけ、やはり活動的なのです。
そのとき重要なことは、あるものに気づくことです。
この表面的な精神の落ち着かない活動に気づくことです。
それを拒否したり、それを正当化したりすることなく、それに気づくことです。
そのずるい代替物、その散漫、そのずるさに気づくことです。
意識の表面的な諸層に気づくようになることではなく、気づいていることにより、平静さが訪れます。
非難や正当化がないかぎり、まさにその気づきこそが理解をもたらします。
精神はそれ自体の活動に気づいているので、穏やかさをもたらすのです。
気づいてください。
単純に習慣に気づくのです。
すると、習慣の理解と終わりがあるでしょう。
精神は極度に活動的です。
速いものは、減速して遅くしないかぎり、理解できません。
精神がそれ自体を遅くすることは、とても困難です。
あらゆる思考と感情が完全に考えぬかれ、感じぬかれるなら、それはできるのです。
充分に考えぬき、感じぬくには、どんな同一化や非難もあってはなりません。
5月25日(静けさの発見より)

【悲しみの中で、、、】

【悲しみの中で、、、】
悲しみの中で、
悲しみを知るものはどなたでしょう?
この質問を自分にしてみました。
悲しみを知ることができないでいます。
知らない間に悲しみが訪れています。
私は悲しみを知らないのです。
だから私は悲しみを生きています。
誰が、悲しみを知れましょう?
私の悲しみは私にしか知れません。
その私は、自分自身を知りません。
どうして悲しみを知れましょう?
だから私は悲しみを生きるのです。
クリシュナムルティ
葛藤・抗争と悲しみの終わりは、自己の諸々の道〔・あり方〕を理解し超越することをとおしてある。
すなわち、精神の創造物ではないあの不滅の真実を発見するなかに、あるのです。
自己認識は困難です。
しかし、それなしには、
無知と苦痛は継続します。
自己認識なしに、
闘争に終わりはありえないのです。
4月27日

【人間の問題】

【人間の問題】
考えることが知識により支配されるときから、人間の問題が開きます。
人間の問題は知的ですね。
言葉でできていますよね。
この人間の問題は私自身です。
私は、私自身を理解しないなら、問題の中で死んでいくでしょう。
私は、人類が蓄積してきた問題の一つの断片です。
このようにして造られた私の問題を、
私はどのようにして、
解消するのでしょうか?
私の近隣での、
私の家庭での、
私の職場での、
私の学校での問題を、、、。
クリシュナムルティ
私たちは、
問題についてどのように考えるべきか、それにどのように接近すべきか、それをどのように検討すべきかを知らないなら、それを終わりにできません。
問題自体より、
接近〔方法〕のほうが重要です。
問題は、世の中・世界ではなくて、
あなたです。
あなたは、自分の最も切迫した即時の問題としてそれに気づくまで、
問題について正しく考えられません。
あなたは、まるでそれが自分の外側にあるかのように、
それに気づかないかも知れません。
あなたが問題を造り出したのです。
ですから、あなたが問題としての自分自身に気づかなくてはなりません。
あなた〔のなか〕の混乱が、
取り除かれなければなりません。
というのは、混乱〔状態〕において行動することは、もっと多くの混乱を生み育てることであるからです。
変革、再生は、他の人からでなく、あなたでもって始まらなくてはなりません。
これが正しい接近です。
あなたの精神的、情動的な活動に気づいてください。
あなたの日常的な習慣と観念に、あなたの反復的な恐れに、階級的、共同社会的な分割に、国家的・民族的、人種的な敵対に気づくのです。
世の中・世界に平和がありうる前に、あなたに平和と秩序がなければならないのです。
4月25日