出入の法と術
3,出入の法と術
計量あるところ、分割があり、闇があります。
分割あるところ、まったくの命は計量により迷い続ける。
これは無始以来、全生命におきている事実である。
あなたは、闇と、迷いと、苦しみの世界に入り、そして、悲しみを抱える命と共にして、出なければなりません。
入って、出なければなりません。
不完全で危険な計量世界、暗愚の中殺し合う熱にうなされた世界に入り、生きて出なければなりません。
どのようにして、この力を得るのでしょうか?
この力は、私の力でしょうか?
それともあなたの力でしょうか?
命は恐怖の重さを抱え、北へ北へと流されます。
浮き沈みに抵抗し、もがく命は疲れ果て渇きます。
渇望する命は、金と神と安心の水を飲もうとします。
そこへあなたがやってきて私に伝えます。
「そこから飲んではいけない。」
「それは死の水だ。」
「よく見ろ。北は幻影だ。」
真相を見た私たちは、垂直に、西へと進みます。
岸部に立つ二人は、生きた命の流れを見ています。
尽きせぬ源泉の流れを見る二人は、渇望から自由です。
もはや二人は、力を求めません。
そこにあることが見えるのです。
生命の源、それは恐怖です。
恐怖の理解が、生命に力をもたらします。
そのための法と術を共に見出しませんか。
恐怖は自分自身です。
法と術は、自分を理解することで生まれるでしょう。
〔自己を理解する法と術〕
〔完全な計量と不完全な計量〕
無名校のブログ
〈 法と術 〉
(計量の真実を開く、法と術)
〔完全な計量と不完全な計量〕
1,完全な計量・出の法
この世における完全な計量は、質量から自由である。
完全な計量には、質量がない。
質量とは、全宇宙における物理現象のすべてであり、物質の総体である。
完全な計量においては、質量に実体はない。
同じく、計量にも実体はない。
質量は計量であり、計量は質量である。
これは完全な計量の法である。
これは出の法である。
法とは、この世で法と名のつくものの総体である。
この世において、計量の真実が開き、生きている作用が生じるなら、それは真理である。
この生きている真理作用が、全宇宙と融合することが、完全な計量であり、言葉と知識を越えた働きとして生死を越え、苦しみを越え、病を癒し、悲しみの終わりをもたらし、この世の死と共に、この世が生まれる。
私とあなたは、この真理を、完全なる計量を知らない。
この真理を見ないし、聞かないし、学ばない。
この真理に気づけない。
私とあなたが知っている計量は、不完全なる分割計量である。質量と分割される計量である。
国と宗教と経済とを分割し、世界を分割していく不完全なる分割計量であり、苦しみと殺し合いを条件とする計量である。
私とあなたは、この事実に基づき、法に入っていこう。
2,不完全な計量・入の法
〔分割計量の法〕
不完全なる計量は、質量との分割を条件とし、物質自体の分割作用により条件付けられる。
この不完全なる計量が無始以来生じている事実であり、これにより全生命は苦しめられている。
分割あるところ計量があり、迷いがあり、誤作動する。
計量あるところ分割があり、闇があり、誤差がある。
あなたは人類の誤差である。
この発見が完全な計量をもたらし、世界を変える。
これは入の法である。
自我は不完全なる計量の主催者であり、誤差である。
この中心から、生命の脳は誤作動する。
これは入の法である。
苦しみと殺し合いの事実に入る法である。
この世の、ありのままに入る法である。
計量の真理が自我を解体する。
真理が完全計量を届け、世界を変える。
これは法である。
認知障害について。
認知障害について。
今年最後の認知症の方とその家族の方とのサポートに行ってきました。
一人一人、認知障害の現れとしては、違いがあります。
そして、一人一人その苦しみの表れとしても、違いはあります。
ですが、認知に障害を起こすという事実に、違いはあるのでしょうか?
頭脳は、いったいなぜ認知に障害を起こすのでしょう?
人間の頭脳だけでなく、生きとし生きるものの頭脳は、
どのようにして障害を起こすのでしょうか?
そもそも、認知するとは、どのようなことなのでしょう?
カラスや猫の認知と人間の認知とは、どう違うのでしょう?
まったくの生命にとって、共通する頭脳の認知構造を解明できるでしょうか?
カラスの経験知、猫の経験知があり、人間の経験知があります。
その生き物の遺伝子に組み込まれた遺伝情報は、その生物の経験知です。
何万年以上もの間に蓄積されてきた、経験知です。
生命は、この過去の経験知に照らし合わせて、現在の経験とを照合し判断します。
比較です。
これは、現在を知らないことを意味します。
現在を経験できていないことを意味します。
現在は、この今というものは、無量のもの、計りきれないもの、
生きているものであり、その全体の一部が現前しているのです。
それを、膨大な量の蓄積された経験知では有りますが、
死んでしまった過去の経験知です。
その経験知で比較し計ります。
計りきれないものを計っているのです。
比較できないものを比較しているのです。
これが命の悲しみです。
目の前に、ネズミの死骸があります。
人間にとっては不衛生です。
カラスや猫にとってはごちそうです。
カラスと猫は争うかも知れませんが、これらの比較計量はあります。
人間は命を計ります。
そして殺します。
それも大量に殺します。
大量の命を殺し、人間をも大量に殺してきました。
計りきれない命を計ることで、大量に殺し合う世界を、
私たち人間は、開いてしまったのです。
頭脳は、なぜ認知に障害を引き起こすのか?
この問いは、認知症と呼ばれる病そのものが開いてくれます。
今、認知症と呼ばれている病そのものが、
私たち人間に危険を知らせ、警告を発しているのです。
今朝おきた瞑想の中で、、、。
今朝おきた瞑想の中で、、、。
朝、薄暗がりのなか、わずかな光を見ていました。
人間は人間の記憶の囚人であり、
カラスはカラスの、猫は猫の、ミミズはミミズの記憶の囚人です。
そして私は私自身の記憶の囚人です。
今朝おきた瞑想の中で私は相手をののしりました。
そして相手の方もまた、私をののしることでしょう。
どのようにしてこの監獄から出るのでしょう。
私は私自身に、この監獄のカラクリを尋ねてみました。
私は相手を自分と「別だ」とイメージし相手の言動を「計る」ことでののしります。
これは私の記憶の中でおきています。
私自身である監獄の中で。
生きとし生きるののの記憶の中でこのことはおきています。
まったくの命が「別だ」という条件によって条件付けられた命、
この分別は「闇」です。
まったくの命が「計る」という条件により条件付けられた命、
この計量は「迷い」です。
「分割計量は闇と迷いであること」これは「生命原理」です。
このありのままを話すだけでは、私は人間に排斥されるでしょう。
なぜなら、瞑想は終わり、これは私自身である知識にすぎず、
驕慢の現れとなり慈しみを失うからです。
愛と慈悲を無くした私は、
それでも「生命の原理」を伝えなければなりません。
自分自身に尋ねるのです。
彼はそれをどう伝えるのか、と。
彼は私に答えます。
「死になさい。」と、、、、。
ブログを始めたいと思います-子供たちといっしょに-
今、関わりを持つ子供たちといっしょに、忍者クラブを始めたいと考えています。
忍術と忍法を、子供たちと、周りの先生方といっしょに発明するのです。
1,学校へ行くのが楽しくなる忍法
2,けんかを乗り越える力をもたらす忍法
3,心の傷を癒す忍法
この3忍法を各学校にもたらすために3つの忍術を学びます。
1,気づきの術
2,見の術・聞の術・学の術
3,出入術
興味のある方、いっしょに探求しませんか?