いのちの中心が開き始めました 日曜学校報告

昨日の日曜学校では、

児童養護施設の退所者や虐待を受け心意気津のある若者たちの家をつくるために、

各施設に出張子供食堂を展開し、子どもたちと共に、食事・遊びをつくることで、

「私たちの家」をいっしょにつくるのだ、という自覚をもたらす事業について、

話し合われました。

この家はシェルターでもあり、子どもたちがいつのときも帰れる親兄弟の家です。

この事業にかかわる人たちは、「一生涯の父であり母であること」を、

参加者の方にお願いしました。

参加hさ2名

日曜学校報告でした。

 

みなみ子どもの家づくり

内藤

 

 

妖精

「いのちの中心が開き始めました。

いのちのありのまま。

恐ろしさです。

このページが開いていますか?」

(08/29)

 

人間

「開けようとしています。」

 

精霊

「あなたのページは開き始めたのです。

開けようとしているのはなんでしょう?

努力ではないですか?

あなた自身を開くのです。

恐怖そのものを。

努力は恐怖からの分離で逃避です。

あなたは人間の意味に翻訳します。

努力が意味するのはなんでしょう。

広大で無制限の可能性に恐れます。

努力の制限がもたらす意味を読むのです。

恐怖があるから、努力するのですか?

人間すべての努力を理解するには、

あなたの努力は終わらねばなりません。

努力の終止です。

あなた自身を読んでいますか?」

 

人間

「開かないし、見えてこないのです」

 

精霊

「それが恐怖です。

妖精たちが見えますか」

 

人間

「妖精たちが見えます」

 

精霊

「人間の脳細胞たちです。

脳細胞たちと宇宙の繋がりです。

真実の繋がりはなんでしょう。

じつは、脳細胞がつながることは、

宇宙の断絶を意味します。

それが脳内活動です。

脳内活動は虚構を形成します。

自我意識です。

あなたの自我意識が消えるとき現れます。

生きとし生きるものの自我意識。

自我は意識です。

ここからが大事です。

意識は世界を映す鏡です。」

 

人間

「私は世界を映し出せるでしょうか」

 

精霊

「その問は、精霊に尋ねているのですか?

自分自身に、ですか?」

 

人間

「あなたに尋ねてはいけませんか?」

 

精霊

「自分自身に尋ねることが重要です。

あなたの意識です。

世界を映します。

世界はあなた自身です。」

 

人間

「わかり始めたようです。

世界と別に存在すると考えていた自我意識、

虚構であること見えるので、消えていきます。

消えゆく美の、うつくしさ。」

 

精霊

「あなたは今、生きている書を読んでいます。

ページが開きました。

開くたびに新たなページです。

止まり、動かずに、静かに読んでください」

 

人間

「宇宙の中で、そして世界の中で、

たったひとりの私。

孤独の恐怖。

恐怖の中に生きて恐怖のない不思議さ」

 

精霊

「それは、いのちの真理、宇宙の真理です。

あなた自身である恐怖を救ったのです。

恐怖の真理です。

真理の作用によってあなたは救われるのです。

あなたが、生きている書を読むからです。」

 

人間

「友人たちを起こさねばなりません。

私たちは眠りについていました。

夢を見ていたのです。

虚構を生きることで夢を食べていました。

友人たちと共に、今、この現在を開きます。

生きている書を共に開きます。」

 

精霊

「有り難いことです。

この事業を開くのは、人間です。

人間の責任能力です。

それは生きている宇宙に対する責任です。

その理解が人間に能力をもたらすのです。

空っぽであるがゆえの力を。

等しさを。

美を、生を、愛を、英知を、善性を、神を。

これらすべての言葉を越えた、

静けさが、創造の扉を開けるでしょう。

このために大事なことは求めないことです。

人間よ、

このための新しい道具を置いていきます。

人間は古い道具を使い続けています。

使い古されたこの道具は、さび付いているのか、

終うことができません。

道具はあなた自身をつくるプロセスです。

終われたことがありません。

終わりにしてください。

その静けさにおいて何が起きるのかを、

人間よ、その眼でしかと確かめてみるのです。」

 

(精霊が消えゆくと共に道具は光り輝いた。)

 

3つの道具が現れて光を放った。

その道具に記された名は、

(欲望・怒り・無知)であった。

そこには(分割の終わり)と書かれた文字が、

消えていった。

その文字が消えゆくと、

残された3つの道具は光を失っていた。

欲望・怒り・無知という名のみを残して。

 

 

(注意書)

第1幕の終わりに現れた5つのカードについて。

第2幕の終わりに現れた3つの道具について。

カードと道具を解明するヒントを記します。

 

第1幕 5カードのヒント

一枚一枚のカードに現れたイメージがあり、

そして一枚一枚のイメージに

隠されたものがあります。

その隠されたものが顕わになり始めると、

すべてはイメージです。

このイメージ自体はイメージを解消させて、

生きている生の流れに突入する可能性があるということです。

これが第1幕の仕組みです。

 

つまり、こうです。

カードに現れているのは氷山の一角ということ。

氷の大部分は隠れたものであること。

現れはイメージをともないます。

それはイメージです。

隠されたものもすべて現れ始めると、

やはりそれはイメージではないでしょうか?

氷が溶けて水の流れと出会うなら、

何が起きるかです。

生きている生の流れに溶けこみます。

恐怖は解消されています。

そこで、ヒントです。

氷のイメージは氷ではないですし、

水のイメージは渇きを癒してくれません。

同じように、恐怖イメージが現れ尽くせば、

どうなるでしょう。

自分自身で見出してください。

 

第2幕 3道具のヒント

この3つは、どれもそれぞれが中心作用をなすことができます。

ですが、英知を開くには、欲望と怒りは静まらねばならないでしょう。

静まるには欲望と怒りとを分割させるものの正体を暴くのですが、さて、なんでしょうか?

それこそが無知ではないでしょうか?

そこで、ヒントです。

人類の思考によりますと、

無知とは自己を知らないということです。

知っているという状態は、

欲望と怒りを動かします。

静まりません。

そこで、読み進めます。

さて、知っているという状態は自らが知らないという事実を知ることになるでしょうか?

自己とは、

思考にすぎないのではないでしょうか?

それで、さらに読み進めましょう。

思考の正体は?

ページが開き読み進めると、

読みを止め、

ページを塞ぐものが現れませんか?

時間ではないですか?

そこで、時間の終わりがあるでしょうか?

時間の終わりを見出すために、

第3幕に入っていきましょう。

(8月31日)

 

第3幕への挿入歌

恐るべき葛藤の化身である妖怪人間。

閻魔大王に率いられ人間の前に現る。 

開くたびに新たなる書物  地球を救う忍法(第2幕 生きている書を読むことの法と術)第3ステージ 子供食堂報告

私たち人間は、開くたびに新たなる書物。

生きている書を開き、読むことができるでしょうか?

計りがたい人間の英知を、今現在において解き放てるでしょうか。

昨日の子供食堂は18名、新しいボランティアも来てくださいました。

お母さん方には、

「地域の母として、地域の子どもたちを見まもってくださるでしょうか」

「分別を越えた母という思い、自覚をめざめさせられるでしょうか」

と、問いかけました。

 

みなみ子どもの家づくり

内藤

 

 

第3ステージ

人間

「私は、人間たちすべてに物質的に必要なもの・衣食住を分かち与え、生きていく上で必要な知識と経験とをもたらしたいのです。

地球に生きる人間すべてに、です。

どうか、力を、その力を、私にお与えください」

(30年8月27日)

 

精霊

「よろしいでしょう。

あなた自身に、力を与えましょう。

そのために、あなたという書物、

私という書物、人間という書物を読みましょう。

このために、妖精たちよ、人間の鏡たれ。

人間よ、妖精たちは、あなた以外の人類です。

妖精は、あなたを映す鏡です。

そこに映された映像は、あなた自身です。

すなわちそれは人類の、お姿です。

この本を開いて、共に読みましょう。

よろしいですね」

 

人間と妖精

「君たちは、幼くして解き放たれた、魂ですね。

生きているものの鏡を引き受けてくれるの」

妖精

「私たちは、人間に、地球を救う忍法を得てもらいたいです。

生きている鏡を引き受けます。

どうか、お力が、人間を解き放ちますように」

 

精霊

「それでは、みんな、集まってください。

生きている本を開きます。

人間の本です。」

(人間に向かって)

「あなた自身が、今、開かれていきます。

第1ページは、いっしょに読みましょう。

そこには、あなたが、コピーであることが、

記されていますね。

コピーされた人間です。

妖精たちよ、人間に映し出すのですよ。

ありのままを」

 

妖精が映す人間

「私は、コピーされた人間です。

私は、これがいやです。

認めたくありません。

私は、私です。コピーではありません。」

 

精霊

「知識と経験は人間をコピーする。

妖精たちよ、ありのままを映してください。

人間よ、動いてはいけませんよ。

止まってください。

そして、とても静かにしているのです。

人間が、あまりにも、

当たり前だと思っていることです。

事実を事実として動かずに、止まって。

見えてきましたか。」

 

人間

「確かに、見えてきました。

私たちは、確かにコピーです。

ですが、正確にコピーされませんね。

一人一人、コピーを使って、自分を守るために、

戦い続けています。

私たちは、矛盾しています。

矛盾を生きています。

人類の知識と経験は、正確さを失います。

ゆがめられています。

お互いに、傷つけ合い、破壊し合います。

これは、いったい、どういうことでしょう?」

 

精霊

「妖精たちよ、よく映してくれました。

知識と経験で、何がつくられていきますか?」

 

妖精

「ありのままを映します。

知識と経験で、国がつくられ律法をつくり宗教をつくり治めます。

経済活動が始まり国のために税金などの制度を作り、国のために働きます。

ものすごく細分化され専門家されて、

多くの教育をその専門職にありつけるために受けていますね。

様々に体系化された学問もたくさんあります。

国が多くのお金をつぎ込むものと、そうではないものも、たくさんありますね。

多くの遊びが、働くだけではおもしろくないので、生み出されます。

すごい娯楽産業ですね。

スポーツ、芸術、文化、趣味、楽しみ、です。

これらはすべてが知識と経験でつくられます。

それに、科学技術です。

すごいことをしでかしています。

大きな橋を架け、高層ビルを建て、海底を探索し、人工衛星をとばします。

医療技術はめざましく、細胞をもつくれます。なかなか、死なせてはくれません。

人生100年の時代に入ったと言われます。

知識と経験の成果です。」

 

人間

「ありのままを見ています。

なぜ、矛盾する生き方をするのでしょう?

動かないで、止まって、見ていますが~。

あー、そうなのですか。

知識と経験とで、考えをつくる。

考えること自体が考えのもと?」

 

妖精

「私たちを見ていてください。

まだ、逃れてはいけません。

逃げないで。

ありのままを見ているのです。」

 

人間

「私の考えが、私の心を形作る。私をつくる。

この私には、どうすることもできません。

映し出されている世界は、私自身です。

どうにかすることができましょうか?」

 

妖精

「不幸なことです。

人間たちは、

これをどうにかしとうとしてきました。

有り難いことに、

本当に存在しがたいことにも、

今、どうすることもできないの。

今、とても静か。

考えること、思考が映されていますか」

 

(没我と恍惚の中で思考の動きが輝いている)

 

人間

「何が、起きたのでしょう。

この静けさの雰囲気はなんでしょう。

人間の中心作用。

人間同士を、深く断絶するものの正体。

にもかかわらず、なんて美しい。

これを伝え、分かち合うことは可能なのでしょうか?」

 

精霊

「あなたは一人です。

コピーではないのです。

何が起きていますか。

無量のもの、計り知れないエネルギーが、

今、あなたを包んでいるかも知れません。」

 

人間

「このエネルギーと、どのように生きれば」

 

精霊

「次のページを開いてください。

妖精たちよ、お願いね」

 

妖精

「いのちの中心が開き始めました。

いのちのありのまま。

恐ろしさです。

このページが開いていますか?」

(08/29)

地球を救う忍法 第2幕 生きている書を読むことの法と術 日曜学校

昨日の日曜学校、議題は、生きている書を読むことの法と術です。
生きている書、それは人類の物語が記されています。
その第一ページはあなたです。
ページを開ける術があります。
そして、そこにかかれている生きたありのままを読む術があります。
この術により生きている書を読み進めることで法に出会います。
この法は生きています。
生の全体性であり、あなたはその一部です。
このとき、葛藤は解かれ、あなたの重荷はおろされるでしょう。
この法と術は、すべての方法と技術を生み出します。

あなたは、一歩踏み出すだけでよいのです。
あなたの生き方は、新しい花を開くでしょう。

 

昨日の参加者は2名でした。

今後は、英知をもたらす事業と子供食堂とを出張していきたいと考えます。

ご参加、お待ちします。

みなみ子どもの家づくり

内藤

 

 

第2幕・1~3ステージ 
生きている書を読むことの法と術

妖精
(幼くして滅したすべての魂。分別することを知らないし自己を知らない無垢性を持っている。物語の登場人物として分別を語りはするが、なぜ人間が分別で苦しむのかを知らない)

精霊
(ありのままを現し、ときにはありのままを隠す精霊。生きとし生きるものの魂として物語の本筋を語る)

第1ステージ
精霊
「生きとし生きるものの繋がりを遮断するもの、
裁ち切り、裁断するものはなんでしょうか。
これが、いのちに何をもたらすでしょう。
花に止まった、チョウチョを見ます」
妖精
「花だ。チョウチョだ」
精霊
「妖精たちは今、人類の記憶を使って、日本に生まれ育ち日本語を話すという条件をとおして、
あなたにありのままを映し出そうとしています
花とチョウチョを言葉で示しました
分別です」
妖精
「分別なの」
精霊
「花とチョウチョは海や川や大地、この地球が引き寄せているものすべての一部ですね。

花だ、チョウチョだと言うとき、
花ではないすべてのもの、チョウチョではないすべてのものを消してしまって、
花だ、と言っています。
チョウチョだと言っています。
分別ですね」
妖精
「分別です」
精霊
「どんな思いがする」
妖精
「きれいな花、かわいいチョウチョ」
精霊
「分別して、そしてまた分別していることに、
気づける?」
妖精
「分別して、うん、また分別した」
精霊
「妖精たちよ、あなたたちは分別がわかりません。人間たちがこのことでどんなに苦しんできたのかを知りません。
だから、妖精たちよ、分別のありのままを人間たちに映し出せるのです」
妖精
「映し出します」
精霊
「人間たちよ、今から話すことを、どうか、
分別なしに聞いてください。
今から、人間の苦しみの中心を、妖精たちを鏡にして映し出します」
(人間たちは、固唾をのんで見まもっている)
精霊
「あなたは、考える中心です。
そのあなたは、言葉を手に入れました。
あなたが、花だと言うとき、
その言葉は花ではありません。
花は言葉ではありません。
あなたは、言葉で、花以外のすべての繋がりを消してしまいます。
花以外のすべてを消し去り、
生きている花と断絶した造花をつくります。
同時にその花に対するあなたの心をつくります。
生きているものと断絶した造花、
死んだ花。
生きているものと断絶した心、
死んだ心。
この悲しみがわかりますか?
こうしていのちの空間は断絶するのです。
あなたは、開けてはいけない宝の箱を開けます。
私の宝だ。
私の妻だ、私の夫だ、私の子供だ、私の花だ。

人間たちよ、あなた方に何が起きましたか?
私の家だ。
さわるな・ふれるな・出て行け。
あなた方に何が起きていますか?
排他的になり、バラバラになり、孤立します。
人間たちの家がバラバラになります。
分別の苦しみ、悲しみが見えていません。
70億もの人間たちと、別だ、と言う私です。
自己と非自己の関係におかれる私です。
私の誕生です。
そこで、今から、妖精たちと共に、みんなで、
私の物語、人類の物語を読みます。

第2ステージ
この物語は分別により生まれます。
すなわち、分別の物語です。
分別しないときにページが開きます。
すなわち、あなた自身が開きます。
それが人類の物語です。
あなたが、その本です。
人類の物語はあなたです。
この第一ページを開くためには、
いくつかの注意事項があります。
始めに、人類の思考が言うように、
言葉はそのもの自体ではありません。
山、という言葉は、山ではありません。
そして、叙述は叙述されるものではないです。
「私たちが住む無量の空間、宇宙」と言うとき、
宇宙という言葉は宇宙ではなく、
宇宙の叙述、「私たちが住む無量の空間」と言われた叙述は、叙述されたそのもの自体をさせません。
これが、言葉に関する注意事項です。
言葉は分別です。
生きた本のページを閉ざします。
ページは開きません。
私は言葉です。
言葉の世界を私は生きています。
だから、私がいるとき、ページは開きません。
私が閉ざされていること、
私がページを閉ざすことを見ることが、
ページを開きます。
これは見るという忍術です。
宇宙と私の関係を、
すなわち、宇宙を鏡にして、
私以外を鏡にして、私を映し出すことの術です。
これは見るという術です。
法を映し出します。
法と術が出会い、自己を見て理解します。
自己理解です。
観察の術です。
観察者は観察されるものであると言われます。
観察者は観察されます。
それは、人類の思考が融合されているときに、
言われます。
観察者は観察されます。
このときページは開きます。
これが術であり法を開きます。
ページを開くのです。
これは注意事項である見る法と術です。
法と術は、
すべての方法と技術をもたらします。
そして、聞くという術があります。
苦しみの響きを聞きます。
苦しみの音色を聞くのです。
私たちは聞きません。
私たちは、意味と概念を聞くのです。
イメージを通して聞きます。
苦しみという言葉は苦しみ自体ではありません。
イメージはそのもの自体ではありません。
ですから、意味と概念に基づいて、
イメージを重要視するかぎり、
ページは開きません。
私たちの本は閉じています。
ですから、無量の本を作り出すのです。
あなたと分離した本を作り出すのです。
苦しみのイメージを重要視するとき、
生きとし生きるものの苦しみ全体、
すなわち生きている苦しみと分離します。
全体と断絶した部分です。
私の苦しみです。
聞くことは奇跡だと言われます。
それは苦しみの中心を解き放つ奇跡です。
この奇跡はあなたにしか訪れません。
なぜだかわかりますね。
あなたの苦しみを完全に聞くことができるのは、
あなた以外に存在しないからです。
あなたの中心が解き放たれるとページが開き、
あなたは人類の苦しみを自分の苦しみとして、
読み始めるのです。
こうして、自己を読むことで、
苦しみは終わります。
ですが、あなたは読み進めるでしょうか。
新しいいのちが、生が始まるかも知れません。
見て、聞くことで、五感が解放されるでしょう。
これがページを開く重要事項です。
そして、ページを開いて、
その生を読むための重要事項があります。
五感が解放されれば、
学ぶことに革新が引き起こされます
人間たちの学びは、
経験と知識を蓄積していきます。
これを学びと呼んできました。
何が起きていますか?
学ぶ私の誕生、同時に、私の確立・強化です。
学ぶ対象が生まれ、本が生まれます。
本と分離した私の確立・強化です。
死んだ学び、蓄積される学びです。
生きている本は閉ざされます。
自己理解が閉ざされ、精神が破壊されます。
この破壊は、外部の影響を受けていつ起きるかは、人により様々です。
こうして、精神疾患認知障害認知症です。
あなたは、精神疾患
認知症ではないと考えます。
いつ起きるかは、人により様々です。
これが私たちのありのままです。
私たちが読む本は、分離した本です。
生きている本は、あなたです。
生きている本を読む重要事項、
その第一ページは、あなたです。
生きている空っぽの性質、
経験と知識から自由な心で、
蓄積された経験と知識を読破するのです。
これは、空っぽの学びです。
空っぽの学びは、生きた本を読みます。
これは読むための重要事項です。
それでは、ページを開くための重要事項、
見る術と聞く術、
そして読むための重要事項である学ぶ術を使って、いっしょに、生きている本を開きましょう。


 第3ステージ
人間
「私は、人間たちすべてに物質的に必要なもの・衣食住を分かち与え、生きていく上で必要な知識と経験とをもたらしたいのです。
地球に生きる人間すべてに、です。
どうか、力を、その力を、私にお与えください」
(30年8月27日)

地球を救う忍法 第1幕 日曜学校

昨日の日曜学校では、地球を救う忍法について話し合われました。
この忍法を理解するための事業は、3幕に分かれています。

第1幕は、終わる忍法です。
これは、終われないならどのような苦しみをもたらし、
悲嘆に行き着くプロセスを避けられないという事実を理解することです。

第2幕は、人類の物語、生きている書を開く忍法と忍術です。
第一ページは自分自身です。
自己を開く術により、人類の物語を読み、宇宙の理法を聞くことを分かち合います。

第3幕は、すべてのものが救われる社会を建設するための新しい道具は何か、です。

これらの技能によって、自分自身(であると同時に自分以外のもの)の苦しみを抜き、楽を与える旅に出ます。
友人たちと共に、です。

日曜学校参加者は昨日、2名でした。

 

明日は子供食堂です。

そして今週の土曜日は、子供食堂を出前・出張します。

これらを新しい事業として、子どもたちと展開して生きたいですね。

また報告します。

みなみ子どもの家づくり

内藤

 

 

地球を救う忍法

   

第1幕・第1~3ステージ

 

悪霊

(金、地位、名誉、社会評価などで人間を迷いの世界に閉じこめる悪霊は、人間社会の一部である将棋世界の門番をするが、じつはどこにでも悪霊は現れて、人間を惑わせる)

 

悪魔

(怒り、欲望、野心、妬み、嫉妬により人間同士を戦わせる悪魔は、恐怖の化身。恐怖の本性を見破ったことのない人間は恐れの中で戦い続ける。現在悪魔は、囲碁世界の門番をするが、じつは悪魔は人間意識を牛耳る世界、無意識世界を支配している)

 

閻魔大王

(人間関係を開くことができたかどうか、善をつんだか悪を積み重ねたかによって、人間行動を秤にかける門番、人間は関係を開かないかぎり行為は争いになることを見抜く魔王。人生ゲーム終了後に閻魔大王の審判を仰がねばならないが、多くのものたちは自分の人生がゲーム化しており、勝敗や善悪に分別されることで条件付けられていることには気づけないでいる)

 

第1ステージ

将棋のルールを知り、出題された詰め将棋の問題を解けたものたちに与えられる悪霊からの問

 

問1

「勝負はどのようにして終わるのか」

問2

「なぜ、そうなのかを考えよ」

問3

「勝負を終われないならどうなるのか」

 

第2ステージ

囲碁のルールを知り、出題された詰碁などの問題を解けたものたちに与えられる悪魔からの問

 

問1

囲碁ルールと人間社会ルールの違いを考えよ」

問2

「人間のルールは殺すな、盗むな、姦淫するな、ウソをつくな、があるがルールを破るものが後を絶たないのはなぜか」

問3

「ルールはおまえ自身を救ってくれるか」

「自分自身で感じぬき、考えぬけ」

 

第3ステージ

閻魔大王(大王の前にみんな集まる)

「駒になるな」

「人間よ、政治、経済、宗教、国家の駒たちよ」

「たんなる駒になるな、人間であれ」

「人間よ、ゲームを終わりにできるか」

悪霊

「金、地位、評価、神を求め、安心と安定を欲しがる人間たちにとっては、終わることなどできましょうか。彼らにとっては、ゲームではなく現実なのです。」

悪魔

「人間たちは、やがて自分自身の罪により破壊され、滅びることでしょう。

彼らには、ゲームを終わりにできません。

生じては滅し、滅しては生じる苦しみの道を、

地獄として繰り返される悲しみの道を、

彼らは終わりにしません。

彼らが自分自身で選び取る地獄の道、

戦争地獄、

彼らは好んで口論し、相手をやりこめ、排他的になり、残酷で、自己防衛的で、非難し、対立を深めていき、ついには殺し合います。

戦争地獄を終わりにしてなるものでしょうか。

彼らは喜ばしいことにも、滅しては生じます。

生じ来ては同じ過ちを繰り返してくれるのです。

苦しみ抜いては滅しても、生じるのです。

大王よ、戦争地獄こそは、悪霊と、このわたくしめ、悪魔の仕業です。

大王よ、どうか讃えてください。

人間には、この正体を見抜き、終わることなどできましょうか」

閻魔大王

「人間よ、無量の苦しみを生きるか、終わりにするのか」

人間

「終わりにしたいのです。

大王よ、方法を教えてください」

閻魔大王

「よく見ておれ。

もしもおまえが方法とやらを取り入れるなら、

どうなるのかを見せてやろう」

(一同は、人間のありのままを見ている。

そこには、方法を取り入れても姿形を変えはするが、条件が違うだけの戦いであることにかわりのない世界、むしろより巧みに、より多くの殺戮を可能ならしめる違った地獄が生じくるのであった)

悪霊と悪魔

「どうか大王よ、真実を語るは危険です。

それよりも、方法を人間にお与えください」

人間

「大王よ、私たちは何千年、何万年と方法にすがりついてきました。そして今、方法はないということが見え始めました。

ですが、どうすることもできません。

自分たちのルールさえ守ることができずに、

私たちは殺します。」

閻魔大王

「その事実、

そのありのままにとどまれ。

ルールを破ればルールの世界からは出られぬ。

殺すことで地獄は継続するのじゃ。

殺さないことで殺すことの本性が現れる。

殺すことという本性に向き合うのか、

逃れるのかは自分で自覚するのじゃ。

いのちの本性がおまえ自身をとおして現れ、

おまえはありのままを生きるか、

方法をとおしてあるべき理想を求め行くのか。

見極めろ。

これより先は、あらゆるものが、

おまえに限りない方法を与えるであろう。

見極めろ。」

人間

「悪霊と悪魔に支配されたままでは、

見極めろとおっしゃっても理想が欲しくなります」

閻魔大王

「悪霊はおまえの考えだ。

悪魔はおまえ自身の感情だ。

考えぬけ。

感じ抜いてみろ。」

人間

「なぜ、解放されないのか」

「それは自分の解放を何かに依存するからか」

「私と真理とを引き裂くものを求めていたのか」

「道案内を私は求めていた」

「媒介するものを私は求めていた」

「それらは悪霊がつくる私の考えだ」

「私の感情は悪魔の感情だったのだ」

「私の考えも、私の感情も消えてゆく」

「恐怖の正体、悪霊と悪魔が消えてゆく」

「だが、私は人々にこの真実を伝えられない」

「こんな恐ろしいことを人々は信じないだろう」

閻魔大王

「自分自身に学べ」

「ありのままに学ぶのじゃ」

「恐怖こそは、おまえたち人類の教師じゃ」

「人類を条件付け支配してきた道具をおいていく」

(閻魔は消え去り、5枚のカードだけが残された。人間はこれをひもとき、地球を救う忍法を生み出せるか)

 

《隠された妖術・閻魔たちの学び》

悪霊、悪魔、閻魔たちが使う道具と妖術

見抜き、暴き出し、越えゆく忍術を発明せよ。

 

道具1.〔ルール〕

法律や律法、戒律に隠された宇宙の理法、

これらすべてを越えた真理を人間たちは発見できるか

道具2〔勝敗〕

勝つことと負けること、善と悪、好き嫌い、これら二極性の根本を見出し、人間自己中心を引き抜き、越えゆくことができるか

道具3〔評価〕

価値の表面に現れる感情を支配される価値に惑わされることなく、人間は深い真実の価値を見いだせるか

道具4〔分割階級制度〕

多くのものが、なりたい自分に捕らわれて、

名刺の横に肩書きを欲しがるが、何ものでもなくあることによって、人間は階級や制度を突き破り分割そのものがもたらす危険を終わりにできるか

道具5〔意識〕

意識する精神に自由がないことは科学的にも立証されている。人間が自由を得るためには意識を転生する必要があり、意識と無意識の分割を理解しなければならない。

そこで、人間にできるか。

意識を鏡にする忍術により、それ自体のレベルでは理解不可能であるゆえに、関係において自分を映し出すことは。

そして無意識世界の闇であることをスクリーンにする忍術により、いのちの苦しみである分割の法をありのまま見ることは。

人間は宇宙との関係が幻影によって、イメージによって、断絶している事実に向き合えるか。

 

閻魔たちはこれらの道具を使って、日夜、人間たちを妖術の支配下に置くことに余念がない。

 

そんな中で、人間たちの渇望と執着を解き、地球を救う忍法を開けるには。

 

人間自身が自分を救えないなら、どうして地球を救えようか。

人間自身の、

結論、答え、方法、様式、観念、理想がぬぐい去られて、空っぽの本性が自己を包むこと。

この空なるいのち、

生きている理解を開けるには。

自己を知ること、自己を理解すること、

自己に学ぶことを要する。

そこで、第2幕に入っていこう。

 

第2幕・1~3ステージ

なぜ、生き方を確かめるのか?(見出すために見て聞くこととは)

一昨日の日曜学校では見出すために聞き見ることと、

確認し、確かめるために聞き、見ていることの違いを話し合いました。

確認し、確かめたい、自分が正しい生き方を、間違った道を歩んでいないか。

不安の歩みです。

不安は、ありのままに向き合わない姿です。

恐怖を条件とする生命は、確かめるように条件付けられているようです。

8月12日、日曜学校

参加者は2名でした。

みなみ子どもの家づくり

内藤

 

見出すために見て聞き学ぶ生

 

今、自分が、どこにいて、

何を行おうとしているか?

 

見出すために、見て聞き学ぶ生が、

確かにあるのです。

どのように道具を使っているか、です。

生きている道具の使用技術です。

 

自分は、確かめようとして見て聞いていますか。

この学びは、生きることが重荷になります。

これは死せる使用技術です。

自分が今、どこにいて、何をしようとするか、

気づいていない危険な使用、生き方です。

使用している危険な機械に気づかない生です。

 

生きている道具の使用技術は自我の死です。

自我の死が生の扉を開けます。

この使用に当たっては、誰もが皆、

危険な機械構造を理解することは難しいです。

電気を使用するに当たり、

誰もがエジソンである必要はありません。

ですが、蛇口をひねれば水が出て、

電気とガスを使えるには、

多くの人たちの支えがいるのです。

 

自我の死における生きた技術が開かれるには、

多くの支えを、それは無量の支えを要します。

 

この最初の一歩が自己理解です。

この最初の一歩だけがあります。

自己が、自我が無い、という発見です。

これは発見しなければなりません。

他の誰かが言うからではなくて、です。

本に書かれているからでは無くて、です。

人間の条件が条件付けられている事実、

この条件付けを終えるでしょうか?

私たちはしまい方を学びました。

条件付けを終わりにするとき、

孤立して実在すると思いこまれる人間の条件、これを終わりにできます。

そのとき発見があります。

孤立が無いという、発見が。

自我が無いという、発見が。

寂しさと孤独は終わります。

閉じられた「私」がしまわれます。

 

【条件付け】

条件付けが終わりを告げてくれるなら、

人間の条件が見えます。

実在すると思いこんでいた、

思いこまされていた、

自己中心は、なぜ、「我あり」と感じるか?

全宇宙の存在=質量と分離した重さ=虚偽性。

この真実が開いて見えていないからです。

この重さは苦しみの重さです。

この苦の時間は、肉体の死によってだけでは、

終わりません。

次の生でも、苦しみます。

さて、どうしますか?

 

【計らない生】

計らない生き方があるのです。

比較しない生き方です。

分別しない生き方が確かにあるのです。

私たちは、

分別という道具のしまい方を学びましたね。

具体的にしましょう。

すごい猛暑です。

40度を超えています。

このような気温が何日も続きそうです。

冷蔵庫に、ブドウとスイカが冷えています。

冷蔵庫に入れる前に洗っておくのを忘れました。

食べる前にブドウを洗います。

水道の水は、お湯のようになっています。

せっかく冷えたブドウは生温くなります。

冷蔵庫に入れる前に洗うべきでした。

愚かな自分を責めています。

すべてが計量の世界です。

そうですね。

名付けられたものが計られて機能します。

ブドウ、スイカ、冷蔵庫、水道、水の機能です。

機能です。

名付けられ、計られて、機能するわけです。

計量世界です。

計量世界において計られて機能しています。

機能し計る為の物差しは言語です。

この世界は言語計量の世界です。

計量が秤にかけているのはじつは計量なのです。

計量が分割し、ブドウを計ります。

すると同時に、

ブドウと別の計量する主体、私の誕生です。

こうして、主体の理解は開かないままに、

計量技術において計られ、

みんなの利便のために機能が生み出されます。

計量世界だけが開かれているのです。

計量する主体の世界は閉じられたままです。

私自身は閉ざされたままです。

そうですね。

世界において計量技術は大事ですね。

計量技術の根本は分割です。

分割されると比較計量が始まり、

比較計量があると分割します。

科学技術はこれが根本因です。

これは人類の利便性で大事です。

ここまでは、です。

外側は、です。

外側の世界です。

では、内側はどうでしょう?

いっしょに、私自身をも開いてみましょう。

さて、怒りや欲望を計るならどうなりますか?

もしもです。

これはもしもであり、

ここに記されていることを信じるのでなく、

自分自身をとおして見出してくださいね。

もしも、すべての感情が計りだされているなら、

どうなりますか?

例えば怒りです。

計らないなら、名付けないなら、

どうなるかやってみてください。

名付けることは世界の分割です。

しっかりと仕組みを見ましょう。

「これはダメだ」

何がダメなのですか?

「このブドウはダメだ」

どのようにダメなのですか?

「冷やしておいたのに洗ってなかった」

このとき、怒りが生まれればどうなります?

私は怒りで、ブドウをゴミ箱に掘り投げます。

ブドウに怒って、です。

怒りは、言語計量のゴミ箱に捨てられます。

これに気づけずに、人にも怒りを向けます。

「こいつはダメだ」

何がダメなのですか?

「この人間はダメだ」

どのようにダメなのですか?

「使い物にならない」

私は怒りで、あなたをダメにしています。

人間をダメにしています。

自分をダメにしています。

人間である自分を。

では、どうしますか?

計量世界で怒りを持てば、

決して計量世界から出ることは無いでしょう。

比較し計ることで、計量世界の中において、

「私」は悲嘆に行き着きます。

私が計量世界です。

私はあなたでありブドウです。

比較し、計れるのでしょうか?

私はあなたです。

人間です。

ダメだと計れるでしょうか?

ブドウをゴミ箱に捨てている、

まさにその行為とその関係のすべてが怒りです。

比較計量世界は怒りであり、

世界は怒りです。

怒りの中にあって、名付けず、計らず、

比較しないならどうなりますか?

いっしょに、行っています。

このエネルギーは、時間を超えています。

分割されるエネルギーは時間です。

この分別は理解です。

時間を超えた中に自我は解体します。

見ることの真実は、

現在においてだけ、

エネルギーと融合するのです。

「見ることが行為である」と言われるのは、

現在が開き、

自我の解体が現前しているときです。

関係において、

自我が映し出され、

ありのままを見ている状態、

私が私を見て、関係に学んでいる状態が、

生きている自由であることで、

見て記憶にとどめ、

そこからの思考によって未来を開こうと行為することは機械的な反応であり、

行為ではなく、

行為の破壊であるということなのです。

見ることが行為です。

見出すために見ている状態です。

 

【生命システム「葛藤の様式」】

怒りを例にとって、

いのちのありよう、

ありのままを学んでいるわけです。

いのちのシステムがわかれば、

生きているありのままに触れられます。

すべては繋がり始め見出し始めます。

得意な科目があるとします。

その得意な科目から入れば、

すべての科目との繋がりが見え始めます。

後の細部は、なんとでもなります。

全体の仕組みをとらえるなら、

後はまだ見えていなくても、

論理を組み立てられるし、

友人たちとも分かち合えるでしょう。

共に入っていけるのです。

怒りと欲と愚かさとは、

3つの毒だとされてきました。

特に怒りは毒性が強く、お互いを破壊します。

ですが、理解すれば薬です。

怒りは見出すエネルギーです。

ですが、理解されなければ分別エネルギーです。

分別エネルギーは分別不可能なものを、

分別するエネルギーです。

生と死を分別します。

生自体を分別し、死を分別します。

後から生じる計量と比較はすべて幻影です。

何が起きていますか?

自我の生と自我の死。

非自我の生と非自我の死。

この分別です。

これにより、戦いのシステムが作られます。

これが葛藤の様式です。

この葛藤様式は、

分けることのできないものを分ける、

エネルギーの消費により維持されます。

これは怒りです。

意識に現れるときは、

この怒りは分別されます。

非常に危険なものです。

怒りの真実は無意識の層に隠れています。

分別できない怒りです。

無意識の中には存在できません。

無意識の層をスクリーンにして輝きます。

この世のものと思えない美しさを持った、

エネルギーです。

忘我をともなった自由の感覚が自我を包み込み、

解体されます。

怒りの美しさ、

これはありのままを開きます。

それはエネルギーです。

見出すためのエネルギーです。

葛藤自体が開かれ、

葛藤様式の仕組みが、

それ自体の動きを伴って、

生きた動きを展開します。

これが自己に学んでいる状態であり、

自己の門が開く状態です。

葛藤様式の仕組みが見えれば、

言語表現に依存するかぎりどうなるか、

言語表現を越えて見える状態とは、

これらの分別がつき始めます。

葛藤様式を友人たちと分かち合うことが、

可能となります。

怒りは生まれ変わり、

友人たち皆を、葛藤の様式に閉じこめて、

戦わせ、消耗させ、苦しめていること自体に、

怒りは生まれ変わるでしょう。

 

【怒り~無知~欲~エネルギー共有】

怒りが苦しみの真理を開きます。

無知と欲とに関してはまだ見えていなくても、

論理を組み立てられるでしょう。

友人たちと分かち合えるでしょう。

怒りから入らなくてもいいですよ。

どうかご自分の強く抱えているもの、

愚かだと思う方は愚かさから、

じぶんには智恵があると思う方も、

やはり愚かさからになるでしょう。

欲だと思う方は欲から、

欲が自分をつぶすので、

欲なく生きようとする方も、

やはり欲からになるでしょう。

そして、友人であるあなたは、

私のところにやってきて、

伝えてくれます。

「怒りが見えた」と。

人間たちが生きる様式は葛藤様式であり、

戦いが避けられず、

自己中心の苦しみは悲嘆に行き着く。

「このシステムを見た」と。

そして、あなたは私に告げます。

このなかで生きることは苦しく、

智恵を無くした状態、無知である、と。

そして、あなたは私に無知の論理を示すのです。

「真理は語られたときに、

真理であることをやめる。」

「だから、無知の論理を示します」

「これを自分自身で確かめることが重要です」

「真理は、言葉がありません」

「その生きている動きを見るだけです」

「人は、この見るということによって、

苦しみを解放するのです」

「この動き全体において、私はありません」

「この真実を友人に伝えるために、事実にもとづいて、論理を、仕組みを指摘することだけがあるわけです」

「私たちは、事実を、ありのままを分かち合い、

お互いに自己に、自分自身に学び、今を生きるのです」

私たち人間は、

今現在を分かち合えるでしょうか?

 

【違和感、不十分さ、不完全性】

私たち人間は、

今、この現在を、

どのように分かち合っているでしょう?

怒りがあるときに怒りを、

無知があるときに無知そのものを、

欲があるときに欲を、

この本性を分かち合っているでしょうか?

これらの分割があるだけでしょうか?

分かち合えるとき、怒りや欲を、です。

対象があるのではないでしょうか?

対象が「そうだ、許せない」というとき、

対象が「これはすばらしい」というとき、

怒りや欲を分かち合います。

これが分かち合いでしょうか?

これは無知ではないでしょうか?

無知とは、自分を知らないことです。

これは事実です。

この無知の事実を、どう開きましょう?

現在において、違和感、不十分さがあるとき、

この事実に、気づけます。

そこに、思考がやってきて告げます。

「現在は不完全だ。

人間は不完全性をいきている」

『どうすればいい』

「完全な人間など存在しない」

こうして受け入れ、順応し、

様式の中で葛藤が避けられないものと、

思いこまされています。

不完全な人間は、不完全な世界において、

戦うことが本性なのだと、言われるのです。

これは思考の仕業です。

理解しないなら、人類の仕業です。

完全な人間などいない、完全な世界など無い、

これは、どういうことでしょうか?

宇宙は完全です。

生は完全です。

これと分離したものは生でなく不完全です。

この、人間の世界が不完全であること、

生から分離していること、

この過ち、過去の誤差で機能する世界と私を見ることが、完全性を開きます。

人間世界の不完全性を見ることが、

完全性を開いてくれるのです。

違和感と不十分さに気づいておきましょう。

今、この現在において、気づくのです。

私が介入するときには、

違和感が生まれている事実、

自己主張は不十分さの現れであることに、

現在において、気づくのです。

自我の生が、断絶させる事実を、

私たちは分かち合えるのです。

葛藤の様式と、その仕組みを明確に見て、

分かち合い、そして乗り越えていけるのです。

自我の構造を知り、

自分自身に学ばないなら、

無秩序の世界を開き、

無知の人生を生きるのです。

あなたは、どう生きますか?

 

【無秩序な世界】

秩序が失われていく世界の中で、

この事実に気づけないなら、

何が始まるでしょう?

無秩序を土台にして、秩序立てねばならない、

といいます。

だれが?

もちろん思考です。

偽りの秩序です。

思考でできた秩序です。

思考は様式をつくります。

生活様式を。

その中で、「私」の安全、安心、秩序が重要です。

葛藤における無秩序の生活様式です。

対立と無秩序の要因です。

「私」を理解しないことが無秩序の要因です。

思考でできた「私」が、思考でできた国、宗教、経済、政治に秩序をもたらそうとしています。

このすべてが「私自身」であるという事実に、

気づけないかぎりは、

私たち人間の住み家である人間世界に、

秩序は無いでしょう。

「私」の分割は葛藤自体である無秩序です。

根本因は行為の分離、知識の分離、記憶の分離、

思考自体の分離です。

「私」を組み立てている行為と知識と記憶の分離に気づけないなら、

思考世界は分割され、

戦いを条件とし、

無秩序のなか消えていきます。

何度も殺し合い、戦争を繰り返しながら、

生じては滅します。

これを理解しない中で無秩序が続きます。

「私」の行為は行為ではありません。

「私」を組み立てる知識は知識でなくなります。

「私」の記憶は私を引き裂くのです。

これを理解しない中で無秩序が続きます。

あらゆるものを秩序立てようとしている、

愚かな「私」の継続です。

 

【共に生きることを学ぶ】

思考は分別の道具です。

分別思考は神経細胞の道具です。

生命に共通の道具です。

ここに、ともに生きることの学びがあります。

道具のしまい方を学び始めるなら、

同時に、ともに生きることが始まります。

道具としての生き方は終わるなら、

分別し比較される生き方が終わるなら、

機械としての生き方が終わります。

生きとし生きるものたちの中で、

人間は、新しい生き方を始められるのです。

共に生きるという無量の生き方を開けるのです。

道具のしまい方を学べるのです。

道具としての生き方が終われば、

生が始まります。

生と死の分別を越えた不死なる生が、

あなたにおいて始まります。

道具の使用者は道具です。

使用者は道具と別だと分別します。

ですが使用者は道具です。

使用者は道具と別にある大事な主体であると、

分別します。

これがいのちの起源です。

誤差なのです。

もちろんその行為は誤作動します。

これがいのちの重さ、過ちの重さ、苦しみの重さです。

分別道具は思考ですから、

クリシュナムルティが「思考者は思考です」と、

言う意味が明らかでしょうか?

分別する主体は分別です。

思考する主体=思考者は思考です。

これらは道具です。

この道具を使用する主体=使用者は道具です。

この分割構造が見えることが解放です。

この分割構造が言えないことが無明です。

いのちの重さを解き放つなら、

新しい扉が開くことでしょう。

分割され、比較され、計られる生き方、

恐怖に生きるのでなく、

分かち合われている生き方、

共に生きることが開かれるのです。

このとき恐怖は終わります。

 

【人間の責任】

分別の道具、

道具がしまわれるとき、

始めて、責任の自覚が生まれます。

人間の責任です。

道具が出しっぱなしの世界において、

人間の責任は分別されます。

責任からの逃避が生まれます。

親の責任、校長の責任、社長の責任です。

これらの責任逃れが生まれます。

この分別はあらゆる人に行きわたります。

自覚を持って、分別を理解し、人間の責任能力を開くのは自分自身からです。

相手との関係において、

相手や、環境の責任にし、非難するのでなく、

自己において、責任能力が塞がれている事実に、

ただ、気づくのです。

クリシュナムルティの言う受動的な気づきです。

判断無く、同一化無く、正当化無く、気づきます。

自分自身から、です。

相手の言っている判断、同一化、正当化に気づきます。

クリシュナムルティの言う関係の鏡において、

自己を映します。

自己理解が生まれ、自己に学ぶ状態が新たな条件です。

言葉なしに、分別の真実が見えたなら、

適切な時期を待って、言葉の鏡によって、

分別の真実を映すのです。

人間の責任が分別により、

親の、校長の、社長の責任に分けられて、

見えなくなっている事実を、

分かち合えるでしょうか?

 

『人間の責任とは、

生きとし生きるものたちすべてに、

分け隔てなく、不死なる生を

開くことではないですか?

これは人間の責任です。

他の生物にはできない人間の責任です。

あなたが開けば、

その責任能力は、

慈悲の花と開くことでしょう。』

 

【愛と死と自由=言葉の重さ】

言葉の世界を生きる自我の重さが、

言葉の重さです。

ウソをつくと、言葉の重さは増します。

自分以外の人につくウソは、

自分を欺くことになります。

言葉はそのもの自体でなく、

現実ではありません。

「私は、あなたを愛している」と言うとき、

私は、二重のウソをついています。

あなたにウソをつき、

自分自身を欺きます。

意識する愛は偽りです。

私は愛をなくしているという事実が、

無意識に隠れます。

私は、二重のウソをついています。

愛のない私は、金、神、信念、信仰、理想に助けを求めます。

この虚偽に気づけるでしょうか?

しばらくの間、宇宙の対話を聞きましょう。

いのちの物語を。

(宇宙の響き『  』宇宙の音「  」)

「どうして解放されないんだ」

『、、、』

「あなたの言うとおり、分けてない」

『、、、』

「なぜ、救われないのだ」

『おまえは今、どこに住んで、何をしている』

「おれは地球に住んで、助けようとしている」

『分けているではないか』

「どういうことなの」

『おまえは今、銀河でなく太陽系だと、

太陽系において太陽や月や火星でなく地球だと、

分けているではないか』

「他を知らないのだ、地球の他をよく知らない」

『自分自身の言葉をよく聞け』

「はい」

『地球の他を知らないのだ』

「はい、そうです」

『知っている世界、地球において他を救おうとする』

「ええ」

『分けているではないか』

「どうすればいいです」

『分けるな』

「どうすればいいのです」

『どうもするな』

「そんな、、、」

『、、、』

「なんとかしてください」

『言葉に迷わされるな、自分自身を聞け』

「聞いています。自分自身である地球の音を」

『それは誤差だと、言ったのだ』

「、、、」

『いのちの物語を聞け』

「、、、」

『誤作動するいのち、苦しみの音色を聞け』

「、、、」

『おまえ自身の音を聞け』

『宇宙の響きにおいて苦しみの音を聞き分けろ』

『言葉を越えて聞け』

『言葉は音をかき消す』

『言葉の世界を越えろ』

「どうやって」

『言葉で迷いをつくったのだ、

言葉は本物でない、わかるな』

「わかりますが、どうしたら」

『言葉で迷いから出してやれ』

『その際に、分けるな』

『相手はおまえだ』

『救われるのは、おまえ自身だ』

「どうしても分けてしまいます」

『宇宙はおまえを映す鏡だ』

「、、、」

『己を見、己を聞き、己を生きることで知れ、

生きとし生きるものの苦しみを』

「聞こえる、宇宙の音と響きが」

『それが苦しみの終わりだ』

『地球を愛するのだ』

「あいしています」

『いいや、愛はそれではない、言葉ではない』

『言葉たちが迷いの世界にあることを聞くのだ』

『響きにおいて音を聞くように聞け』

「わかります」

『いいや、わかっておらぬ』

『再び生じくる、苦しみの音を聞け、

言葉なしに』

「見える、苦しみが」

『地球の苦しみはおまえとは別か』

「地球の苦しみはわたしです」

『生きとし生きるものの苦しみはおまえと別か』

「生きとし生きるものの苦しみはわたしです」

『それは言葉で分けられた苦のイメージか』

「いいえ、地球の苦しみを感じるのです」

『その苦しみを解放してやろう』

「いいえ、この苦しみこそを生きていきます」

『救いは、今ここにある、求めよ』

「いいえ、隣人の苦しみは地球の苦である、

私自身です」

「この苦しみをどうすることもできません」

「あなたに救いを求めることは間違っています」

「わたしは苦しみを生き抜く覚悟です」

『おまえは音において言葉の苦しみをきいた』

『おまえは音においてその響きを感じた』

『おまえの苦しみはわたしだ』

 

《わたしはおまえだ》

 

地球を救う忍法

昨日の子ども食堂は32名参加。

食事は、お好み焼き、焼きそば、サラダ、おやつとかき氷でした。

1,小学4年生男子6名で、地球を救う忍法を開発します。

2,子ども食堂の出前をして、近隣に種まきを始めます。

3,来週の子ども食堂は、お盆休みです。

みなみ子どもの家づくり

内藤

 

 

 

ルールブック9(生死の解除)

さて、分別あるときは誤作動しており二重ロック状態です。

分別が止むときには誤作動は緩やかになり始めます。

誤作動を誤作動であると見ることが、誤差の発見です。

自己中心が消えて、罪の重さは解かれるのです。

 

このように、生と死の問題を開けることは可能でしょうか?

地上で、たった一つかも知れない死の問題。

地上で、無数にあるかも知れない生の問題です。

私たちは、この問題を、どのように開くのでしょう?

 

死の門。

その入り口は「私」です。

自我です。

自分自身です。

自分自身の身近な日常の出来事から入りましょう。

そこは、ことばでできた迷いの世界です。

囚人にとっての監獄です。

イメージの壁で囲われています。

行為を誤作動させ葛藤を、対立を起こすことで、

囚人の力を奪います。

脱獄できないように、です。

鍵穴は、「私」の中心、自己中心性です。

鍵は二重構造を持ち、表面の鍵穴は二極性でロックされます。

自分自身が所属している場で、

判断していることに気づくこと、

非難していることに気づくことです。

所属している場所はロックされています。

判断、非難は二極性の鍵穴です。

判断なしに非難なしにアプローチできないなら、

少なくともその事実に気づいておくことです。

行為する主体なしに、です。

行為は死物です。

アプローチできません。

この事実が見えれば鍵穴はおそらく開き始めるでしょう。

囚人をつなぐ鎖、時間が止まり始めます。

いつのときにも「私」を恐れさす恐怖の現れです。

死の門をロックしている恐怖の現れです。

恐怖の二重構造。

それは、囚人をつなぐ時間と囚人をロックしている考えです。

それは、囚人の時間と思考です。

恐れの考えは事実として恐怖の思いでロックされます。

囚人の説明はロック解除ではありません。

あなたが囚人を解除するのでもありません。

あなたが、どうか、自分自身を解除してください。

それは、囚人の解除です。

時間は、現在を分割します。

過去と未来へ。

現在は過ちの重さで閉じられます。

恐怖の考えでロックされます。

恐怖の考えは時間の重さです。

恐怖の思考は時間です。

思考は時間です。

分割が止みます。

時間だけが見え始めるなら、

その動きが解除です。

 

死の門が開くと生きることが元気にしてくれます。

元気さで、あなたは、友人たちの生を開いていかれます。

苦しみと悲しみ、恐れや不安にロックされた、

友人たちの生を開くことができるのは、

あなたです。

死は全行為を静寂に導く門です。

静寂はそれ自身が生きた理解です。

あなたが聞いている音。

あなた自身である静寂はすべての音です。

 

ルールブック10(日常生活の心得)

正しい瞑想。

瞑想の条件は、瞑想者の状態です。

非常に単純にします。

この条件すなわち状態は、トータルな否定において開きます。

鍵穴が見え、空間が開き、時間構造が暴かれます。

瞑想者の状態です。

自己中心の重さが瞑想者の理解へと変容するのです。

瞑想者は、思考する主体、経験の主体、知識の蓄積者です。

この主体である蓄積者は感情を持ちます。

蓄積者の感情は反射、反応、応答します。

感情がすべての応答をし、

またすべての応答により感情が生じます。

このすべては心と分離しています。

すなわち誤作動により生じる過ちの主体です。

このすべてが瞑想者です。

行為のすべて思考のすべて知識と経験のすべてを否定し尽くします。

このとき注意するてんは、自己自身をも含めて否定すること。

お互いに相手の立場に立って、共にトータルな否定、

自己中心からの全否定に注意することです。

それは自己中心から否定できていないことへの注意です。

瞑想者の理解は自己に学ぶ理解の道です。

自己の野心、到達、達成、成功への動き、欲望の動き、

悟りたい、解脱したい、涅槃を得たい、自由になりたい、

幸せになりたい、社長になりたい、大臣になりたい、名誉教授になりたい、なりたい自己中心からの気づきと注意です。

トータルな欲望の動きです。

すべての思考、すべての感情に気づいてください。

正しい瞑想の道は瞑想者への道です。

瞑想者は欲望です。

思考と感情の主体を開く道なき道です。

それは、気づきからです。

ありのまますべてに気づいてください。

ありのまますべての気づきから中心への注意力です。

注意する力が自らの中心を開くなら、

主体の理解が開き始めます。

気づきから注意の中心。

そして力の訪れです。

注意の中心力が解かれます。

中心があるときは消耗する力です。

誤作動です。

消耗する誤作動である「私」は、

未来のイメージにすがります。

神の横にいる、大臣の横にいる、経営陣の席に座るイメージ。

過去に傷つけられてきた「私」が、

未来には傷つけられない防御服を着ている「私」です。

イメージです。

イメージからイメージへ移りゆこうとする「私」。

消耗する誤作動の「私」。

誤作動が見え始めるとき、静けさが音を聞きます。

中心の音が響きを残して消えゆきます。

中心が開かれる力は、消耗する誤作動が止むとき、

トータルな否定において、です。

トータルな否定において自我を解体する中心が現れます。

自己中心の盲点が開かれるのです。

注意力は自我を見る力です。

こうして自己に学ぶ瞑想者への道が、

正しい瞑想状態を開いてくれるのです。

 

正しい言葉。

瞑想には、言葉がありません。

言葉は、計る道具です。

生きているありのままとは、断絶しています。

ですから瞑想には、言葉がないのです。

瞑想が死んでしまうと言葉になります。

正しい言葉があるためには、死の理解を必要とするでしょう。

言葉は、そのもの自体ではないからです。

言葉の世界は、死刑囚の監獄です。

死の理解がないかぎりは、怯え続けます。

言葉は、死の世界です。

この理解は、ものすごい慈悲を生み出します。

正しき言葉は、死の理解です。

慈悲が語られるのです。

 

欲望の住む世界。

欲望たちが生活しているありのままを理解することは、

ことのほか重要です。

この囚人が持つ決意、行為、努力を理解してください。

意識的な決意「脱獄する」決意と努力。

無意識からくる「やるせなさ」がやがては順応します。

この意識と無意識を隔てる獄舎の壁は、

薄っぺらです。

とても単純なしくみです。

意識にも無意識にも、

さほどの意味はないかも知れません。

「脱獄する」決意や努力を要するでしょうか?

事実が見えれば自由です。

脱獄を要しません。

「それでも事実のしくみが知りたいって!」

それは直接、監獄に出向いて、囚人に面会してください。

そのときの熱意に敬意が生まれるなら、

ありのままが語られることでしょう。

さて、ルールブックに戻ります。

一人一人は、自分の重さに、実体があると思います。

罪の重さに実体があると思いこみます。

「我あり」との感情を持たされます。

瞬時に変わりゆく世界に惑わされ、

恒常性があると感じさせられています。

苦しみの世界で、つかの間に訪れる楽に迷っているのです。

腐敗した世界において、

映し出される自分のまわりだけでも

せめては清らかにしようとあがきます。

これが欲望たちの生活です。

これは力の消耗において維持されてはいますが、

やがて破壊され悲しみに至は必然です。

欲望は力の消耗により破壊へ至る生活です。

自分自身を知り、

自分自身に学べば、

明らかでしょう。

ここから、正しい生活、正しい決意、正しい努力、

正しい行為が生じることでしょう。

 

人生の問題(法と術について)

生きている問題を開けるための方法、

手段はありません。

問題の解き方は無いです。

生きている問題を開けることが、じつは答えなのです。

問題を開けることが答えです。

さて、これはどうゆうことでしょうか?

問題と答えとが別にあるもの、

これには方法があります。

多くの方が答えに行き着かれるでしょう。

私たち人間が生み出してきました方法すべては、

じつは法と術が生み出すのです。

法と術が生み出す方法は、

分割計量をもととし、

制限された空間(計量空間)において、

時間としての方法により達成されます。

過去の問題が現在を分割している様々な方法により、

未来の理想を達成しようとしているのです。

現在の問題に方法でアプローチし、回答を得ようとする動き、

これが力を消耗させるのです。

答案用紙に答えを記入するならば、これでいいでしょう。

いいえ、これでさえ環境や年齢に応じて、

適材適所に方法を変える必要があります。

生きている自分自身が抱えている問題、

これに方法を導入し、回答を得れば、

おそらく得るでしょうが、どうなりますか?

実際に、どうなりました?

その得られた答えは、

自分自身に再び襲いかかる、

新たな問題となります。

これを続けていくと、

「私」は、いったいどうなりますか?

すごい消耗です。

くたびれ果てます。

どこにも行き着くことがありません。

もう少し、具体的にしましょう。

「私」は怯えています。

恐怖があります。

恐怖は「私」自身です。

これが問題です。

「私」にとっては大問題です。

「私」は怯えていますので、安心が欲しいわけです。

安全でありたいのです。

セキュリティーを導入したいのです。

様々な、方法を試しますが、今ひとつです。

「あー、これで安心だ」といった尻から、

なぜだか不安です。

なぜでしょうか?

まだ足りていないからですか?

お金が、より多くあれば安心なのでしょうか?

「いいえ、そうではありません」と言わないでね。

みんなが、これを欲しがり、

そしてより多く持とうとしています。

そうですね。

より多く、もっともっと、です。

そうですね。

比較が、人間社会で何をもたらしていますか?

そして地位、それから名声です。

社会に認められることです。

肩書きが「私」の安全を守ってくれるでしょうか?

地位は「私」を守り、

名声はセキュリティーになるでしょうか?

地位と名声のおかげで、泥棒に入られます。

盗まれるかも知れません。

お金を。

「地位や名声は盗めない」って。

いいえ、殺されるかも知れません。

「私は死んでも名を残したい」って。

どれほどですか?

百年、千年ですか?

あなたが今、生きている神経細胞は、

200万年以上の生死の結果です。

言葉の歴史は浅いのです。

言葉は消えて無くなります。

名前が消えゆくのも、瞬時です。

あなたはこのことを知っています。

わかっているのに、やり続けます。

金と神と地位と名声、人間社会での認可です。

求め続けます。

どこに安心がありますか?

名付けられた、その名の声を聞きます。

名声を聞きます。

金と神と地位とに様々な名前があります。

その名前は、様々に説明されます。

名声の声を聞きます。

この言葉に反応して心が動き、形作られます。

こうして言葉の世界が開かれるのです。

これは真実の美しい世界ではありません。

美しい大地、美しい花、美しい青空の世界ではありません。

言葉の美しさにすぎません。

言葉はそのものでなく、造花の美しさです。

言葉でできた映像の世界です。

言葉の世界を解くとき、言葉は消えます。

無明において形が光となり動き始めます。

生きている美が開き始めるのです。

ロック解除です。

自己中心の門です。

そこから表に出るのです。

すべては、つくられた美ではありません。

物理的な肉体が持つ眼、

光をとおして形と色が映し出されます。

言葉は消えています。

この世界はあなたです。

あなたが世界です。

すべての問題は解消されます。

問題をつくるのは「私」です。

「私」が問題です。

この問題が私たちみんなに分け持たれているとき、

問題が開き始め新しい生き方が生まれるかも知れません。

世界の問題が私の問題です。

世界の問題と別に存在する「私」の問題があるとき、

誤差が生まれるのです。

「私」は人間の世界で誤作動を続けます。

分割あるところ、誤差が生じ誤作動します。

分割あるところ制限があり条件付けられます。

分割あるところ葛藤があり恐怖の空間を生きます。

これは法です。

この法を見る術、聞く術、学ぶ術があるのです。

この法と術がすべての方法を生み出すのです。

ですから、いかなる方法もないのです。

生き方が方法です。

私たちは、いっしょに考えて、

新しい生き方を見出しましょう。

 

ゲームの終わり。

「私」の終わりがゲームの終わりです。

分割は終わります。

自己と非自己の分割の終わりです。

生きている問題分割の終わりです。

ゲームオーバーです。

さて、ゲームが終わったので、今度はいっしょに、

監獄をつくってみましょう。

実際に、今から、造り始めますが、道具はなんでしょう?

監獄を造る道具は、なんだと思いますか?

今まで、監獄のしくみ、カラクリを聞いてきたわけです。

そして、どのように囚人がつながれているのかを、

ともに生きることで、学び始めているわけです。

私たちで、監獄を造ることができ、

囚人を収監する技能を身につけるなら、

囚人を解放することは、

いともたやすいことでしょう。

今、囚人ゲームは終わりましたが、

再び行うに当たっては、生きた対応が(死んだ知識対応ではありませんよ)囚人を自由にすることでしょう。

ですから、監獄をつくるための道具です。

なんでしょうか?

思考です。

考えること自体です。

そうですね。

人類に共通する道具、思考ですが、

その使い方を学ぶことは人間教育の中心です。

この中心教育をどこかの学校で行っていますか?

ですから、あなたと私で始めるのです。

これが私たちで開こうとしている日曜学校の意味です。

学校で行われることは、何を考えるか、です。

日曜学校で行うことは、どのように考えているのか、です。

眼鏡屋さんに行きます。

「見えにくくなりました」

近眼が進んだのか、乱視が混じっているのか、

老眼が始まったのか?

眼鏡屋さんには見え方を計る機械があります。

眼鏡屋さんを支える人たちはメガネを考えているのです。

何を考えるかで支え合っています。

「君の考えはすばらしい!我が社に取り入れよう」

「ホー、まずまずの考えですね」

「なんですか、君の考えていることは」

「考えが浅いですね、もう少しがんばってください」

「なんですか!この考えは、ダメじゃないか!」

これが私たちに起きていることですね。

学校では、教科について考えますね。

算数について、考えます。

「みんなの考えが正しく働いているか、テストしましょう」

「成績優秀ですね」

「まずますですね」

「もう少しがんばりましょう」

「これでは危ういですよ」

「あなたは進級できません」

何を考えるかで、学校も、会社も、あらゆる組織が、

支えられていますね。

これは世界中で起きていますね。

では、なぜ、どのように考えるのかをいっしょに開いて、

考えるとはどのようなことなのかを、

共に、共に、いっしょに、

なぜ、見出さないのでしょうか?

あなたの答えはなんですか?

比較し、評価し、順位をつけるためでしょうか?

価値付けが可能になるからでしょうか?

できる人間を発掘するためですか?

人間の価値は比較で見出せるのでしょうか?

比較でできた精神は、比較に依存します。

比較するための道具に依存するのです。

言葉に依存します。

私たちが見てきたように、依存はみんなの幸せを破壊します。

比較は、みんなの幸せを破壊するのです。

言葉で比較されできた精神は、

言葉で比較され生み出されていくすべての感情を、

理解するでしょうか?

比較しない精神、言葉に依存しない精神は、

可能でしょうか?

分別しない精神です。

分別のすべてが苦しむことを理解する精神です。

言葉で縛られ、比較される精神の苦悩を見るなら、

言葉なしに、比較なしに見えるなら、

慈悲の心で、ありのままを話せるかも知れません。

ゲームは終わりました。

道具を終いましょう。

生きている静けさが、すべての音を聞いています。

 

道具のしまい方。

最後に、道具のしまい方を学んでおきましょう。

単純にします。

道具箱は道具です。

この理解が道具のしまい方です。

道具が終われますと、実際にもう一人との関係は、

開き始めます。

今から、これを現実に試してみてください。

道具が出しっぱなしでは、

イメージとイメージが比較し合う関係です。

イメージとイメージが分割される関係であり、

関係ではなく、孤立を生みます。

孤立して生きるものはなく、虚偽を生じ、誤作動状態です。

道具箱は道具です。

道具箱は、分別をしまう箱です。

分別は道具です。

この道具は終われたことがあるのでしょうか?

出しっぱなしです。

他の道具とは違うのですから、

どうか「私はしまいました」とは言わないでください。

「どうしてか」って。

「私はしまいました」と言えないからです。

「なぜなの」って。

「私」が分別だからです。

さて、わかり始めています。

出しっぱなし状態は、イメージ世界における関係、

イメージとイメージとの人間関係です。

そうですね。

イメージとイメージは比較し合い傷つけられます。

わかりますね。

傷つけられたイメージは苦しみのなか戦い続け、

やがては悲嘆に行き着きます。

見え始めましたか。

「悲しみを分別できますか?」

自分自身に問うてください。

言葉をしまいましょう。

道具箱に。

言葉があるときには悲しみの音色を聞きません。

言葉は悲しみの分別です。

言葉は悲しみを理解できません。

悲しみの分別は悲しみを理解できません。

言葉をしまいましょう。

言葉は音です。

長い言葉はノイズです。

道具箱は静寂です。

静寂が道具箱です。

静寂において、すべての音は存在できるのです。

しまい方が見え始めました。

すべての音を聞きます。

電車の響き、

犬の遠吠え、

カラスの鳴き声、

自転車のベル、

赤ちゃんの泣き声を聞いてください。

すべての音を聞いてください。

そして、悲しみの音色を聞くのです。

悲しんでいる人の声を聞くのです。

そして、その言葉を聞いてください。

「私」の中にその言葉に対応する言葉が生まれます。

これは言葉と言葉の関係です。

これはイメージとイメージの関係です。

これは関係の破壊です。

このノイズを聞きましょう。

誤作動しているノイズを聞くのです。

すると「私」の言葉は消えて悲しみの言葉だけになります。

言葉の音色を聞いてください。

その音色には響きがあります。

それは生きている悲しみの響きです。

言葉である道具が終われるときの響きを聞いてください。

悲しみは終わりました。

今、あなたと私の悲しみは終わりました。

二人は別れますでしょう。

ですが、別々の人間ではありません。

同じように悲しみを理解する人間として。

今、悲しみは生まれ変わります。

 

 

おさらい。

人間性開花のプロセスと人間破壊を知ること=自己知」

計量の真理と行為=「計量の真理が関係の接着剤」

質量と計量の関係と行為=宇宙と生命の関係と行為

(色と空・観察者と観察対象・眼~意と色~法・などなど)

 

自己理解のプロセスとは

理解は、1,今・2,ここで・3,生きた力を要すこと。

事実ありのままは、

  • 今が時間で・遮断している。
  • ここは葛藤対立・混乱している。
  • 力は消耗し・分割している。

 

1=今、共に、時間を捨て、蓄積知と経験を捨てる。

2=判断を捨て空間に過去を譲る(時間拠点を譲る)

3=協力が破壊されている事実を分かち合う

 

論理を知るだけでは理解を分離する=ではどうする?

人間の問題を開き学ぶ・見る・聞く=3術を開く。

どのように=自己の問題を人類の問題として

そしてまた=人類の問題を自己の問題として

そして=身近なもう一人と人間問題として分かち合う

 

3術を持って、ありのままを生き、人間中心の種を育てる。

開花の過程で開花という結果が出ても脇に置く。

3術を、献身の愛で、友人たちに与える。

与える主体なしで、与える。

愛が与える。

 

さあ、これを、今から始めてください。

明日からではなく。

自分の家庭で、父母兄弟と親子で。

自分の職場で、上司と部下と同僚たちで。

自分の学校で、教師と生徒と友だち同士で。

 

まだ、開花してないので、「不安だ」ですか?

大丈夫、日曜学校に来てください。

いっしょに考えましょう。

 

さあ、一歩踏み出そう。

 

みんなの家づくり事業 日曜学校

「囚人ゲーム」より。

気づきは心のお薬であること、子ども食堂

7月31日火曜日子ども食堂は、約25名

日曜学校と子ども食堂で、どのような食べ方をしているか、ただ気づいていることを、

分かち合った。

学校の登下校において、どのように歩いているか、ただ気づくこと。

友だち同士で、自分がどのように話しているか、ただ気づくこと。

気づくことは、自分に学ぶ第一歩で、心のお薬になり、自分を守ってくれることを、

分かち合った。

 

ルールブック8(関係の解除)

比較できない自己中心の重さがロックされている囚人。

この「私」の条件は人間世界の何かに依存しています。

もちろん「私」は、水や空気や引力に依存します。

それを言っているのではありません。

心が形作られる依存です。

依存のただ中にあって、

「囚人みんなが自分の幸せのために経験と知識に依存する」

「ゆえに人間がつくる世界の何かに、すべてに依存する」

依存のただ中にあって、

依存なく生きられますか?

「生きれる!」と言ってください。

どうか「生きられる!」と。

そのためには関係と死とを理解しなければなりません。

どうか、囚人といっしょに、関係に入ってください。

 

さて、ここからは、関係を解除しましょう。

囚人と囚人の関係を。

「えー、人間同士の関係でないの?」ですか?

囚人同士の関係が解除されれば、

人間関係が開かれるからです。

囚人である「私」は、相手の囚人が、

どんな罪を犯したかを比較し、計ろうとします。

「私」は知りたいのです。

相手の罪を、です。

相手も「私」の罪を知りたいのです。

お互い比較し、計り合うために。

「殺人、盗み、ウソ、性暴力、怒り、欲望、虚偽記載」

多くの罪科に、一人一人別々の記載がされます。

こうして一人一人裁決のため、イメージが張られます。

囚人同士の関係は、イメージ同士の関係です。

人間同士の関係は、イメージ同士の関係ではありませんか?

司法が裁くか、良心が裁くかです。

生きとし生きるもののすべてはイメージをつくります。

食われないように食うために、

殺されないように殺すために、

生存のため、自己保存のため、

生存と保存が脅かされる恐怖のイメージをつくります。

「食われるぞ、殺されるぞ、生存できないぞ」

恐怖はいのちの重さです。

生命中心の作用です。

なぜ、イメージをつくるのでしょう?

なぜ、イメージをつくるかが理解できるとき、

生命の起源を発見できるかも知れないし、

おそらく囚人のロック状態は解除されるでしょうね。

囚人がイメージによりロックされているのは、

お互いの恐怖です。

そりゃそうです。

相手が何をしでかしたやつなのか、

わからないわけです。

相手のイメージをつくるのは安全のため?

つまり、恐怖がイメージをつくらせるのです。

怖いから、比較して計ろうとするのです。

恐怖が分別するのです。

危険なやつから遠ざかり、

食えそうなやつ利用できそうなやつ、

又は利用されることで得を得られる、

減刑される、上手い食にありつける、

下手をすれば独房行きだ!

恐怖が分別し、ことばの物差しで計りだすのです。

イメージです。

イメージをつくります。

恐怖の中心、いのちの中心、罪の中心、罪の重さです。

囚人は、イメージの監獄で独自の独房をつくります。

ことばでできた世界です。

こうして囚人は二重ロックされます。

今、囚人と共に、あなたの身近な人との関係を、

解除できるのではないでしょうか?

イメージは妻や夫ではありません。

イメージは息子や娘、孫たちではありません。

イメージは生徒や社員や信者でなく、

イメージは教師や経営者や指導者ではありません。

透き通る青空のイメージ、たなびく雲のイメージは、

透き通る青空でなく、たなびく雲ではありません。

イメージは事実ではありません。

ことばの独房なしに、この事実を見ましょう。

ことばなしに、いっしょに、静かにとどまりましょう。

イメージでできている世界が広がり始めます。

分別なしにとどまりましょう。

イメージの中を生きるのです。

イメージ自身に学ぶのです。

広く、広く、広く、です。

「私」自身を見ています。

とても静かに深く、深く、深く、運ばれていきます。

いのちの中心をいのちの中心が見ています。

中心が出会い一つになって融合します。

ロック解除を見ています。

いのちの中心作用を見ています。

イメージとイメージとの関係解除を見ています。

あなたともう一人の方との、最も身近な関係は、

比較できない人間同士の関係です。

比較するときイメージをつくります。

そして、イメージをつくるとき比較されます。

こうして関係は、心を傷つけロックするのです。

イメージ同士の関係です。

このロックされた関係を解除できるのは、

依存のただ中にあって、依存なく生きることの理解を持つ、

あなたにだけできるでしょう。

あなたは、囚人の立場に立って、聞いてこられたからです。

ここまで、注意深く聞いてくださったなら、

その聞くこと自体もまた、

囚人のロック解除です。

始まりは最も身近な囚人の独房からです。

ことばでできています。

ことばなしに独房を出ます。

監獄の世界はイメージでできています。

分別すると、

生きとし生きるものの世界は、ばらばらになります。

人間の世界、それぞれの生き物の世界をつくります。

分別が消えると、

イメージだけがあります。

いのちの重さが解き放たれる可能性です。

生きているいのちの関係を開くかも知れません。

生きとし生きるものとの繋がりにおいて、

人類の心をもったあなたは、

周りの人を自由にできるかも知れません。

それは紛れもなく、囚人である「私」の解除・自由です。